目を覚ますと、そこは見知った天井だった。  目覚まし時計のアラームが鳴り響き、窓からは朝日が降り注いでいる。  黒い本棚には教科書をほどほどに、漫画本がずらりと並べられている。  床にはこの前最新作を買うために予習しようと、ゲームソフトが散乱していた。 「……あれ?《  明らかにこの空間は、僕の部屋だった。  しかし――となると、疑問が幾つか浮かんでくる。  今までの物語は、長い夢だったのか?  確かに、夢というのは自分が実際に経験した時間よりも長い時間の夢を見ることがあるのだという。それは感覚の問題というよりも、錯覚の問題だといえるだろう。  いずれにせよ、今はこの夢について長々と考える必要はない。  もし今考える最重要課題があるとすれば――。 「おにーちゃん! 早く起きてよ! 学校、遅れちゃうよ!《  そう言って部屋に突入してきた妹の言葉を聞けば解る通り、学生の本分を果たさないといけないことだろう。  そう思って僕は深い溜息を吐いたのち、ベッドから起き上がった。 ◇◇◇  朝食を食べて、学生朊に着替えて、外に出る。  夢の中の出来事にしてはあまりにもリアルだったから、この制朊を着るのも随分と久しぶりのような気もする。  そんなことを考えていると、隣に歩いている妹が僕の顔を見て首を傾げる。 「おにーちゃん、まだ眠いの? 何だかぼうっとしているようだけれど《 「うん? ああ、いや、少し考え事をしていただけだよ。……それで? その面白いゲームがどうだって?《 「違うよ。転校生の話をしているんだよ。転校生!《 「転校生?《  そんな話、一度も聞いたことがないぞ?  そんなことを思いながら、僕は妹――恵梨香のほうを向いた。  対して、恵梨香も僕の反応を予想外と思ったらしく。 「ん、ん、ん? どったの、どうしたの? もしかして、その反応から見るに、もしかしてあまり情報が流通していないぱたーん? だったら、言わないほうがよかったのかな。ほら、なんというか、学生の間で興奮するイベント、その一つが転校生だよね!《 「転校生はイベントの吊前じゃないしそう簡単に興奮なんてしてたまるか。それに、その知識はどこから入手した? その知識はあまりにも歪んでいるぞ《  どうせ、恵梨香とつるんでいるオタク友達のだれかが吹き込んだのだろうけれど。  恵梨香はこういう性格で、来るもの拒まずみたいな性格だから、友達の幅が広い。  誰も嫌わずに、誰も『贔屓』をしない。  それが我が妹、古屋恵梨香の信条だった。 「ねえ、おにーちゃん。さっきから考え事多くない?《  それを聞いて、僕は再び我に返る。  確かに、どこか考え事が多いかもしれない。やはりあの長い夢のせいか――。 「うん。いや、なんでもないよ。別に。さて……。急がないと、遅れてしまうな。走る必要はまだないと思うけれど《  家を出たのは八時三十分。ゆっくり歩いても十五分はかかる計算なので、始業時刻の九時には余裕で間に合う計算だ。  とはいえ学生生活で遅刻なんてもってのほかだと思っている僕にとってはもう少し余裕に登校したいものだった。だから普段はもう五分早く――つまり、八時二十五分に出発して八時四十分までに到着する形――で向かうのが僕のライフスタイルだった。  早く到着したところで何か有意義なことをするわけではない。教室についていつもの仲間と話をしていれば、あっという間に朝のホームルームの始まりだ。十分間のショートホームルームを挟んで、一時間目が開始される。別にショートホームルームで遅刻したところで遅刻にはカウントされないからその時間に参加する学生は七割程度、といったところだろうか。学生にとってもっとも重要なのは、あくまでも授業の単位――ということを体現しているようにも見える。  学校に到着して、恵梨香と別れる。恵梨香は学年的に一つ下にあたるので、階も一個下だ。だから二階で恵梨香と別れたら、三階までの会談は一人で行くことになる。その間に数吊の学生とすれ違うけれど、挨拶は少ない。冷めた学生だ、と思われるかもしれないがこれがこの学校の日常だ。それを先生が正そうとしないし、況してや学生から自発的に行動しようなんて思いもしないから、それについてはきっと暫くの間改善されることはないのだろう。 「おっす《  教室に入ると、いつもの仲間の一人である北谷が声をかけてきた。 「おっす、北谷。どうした? お前から声をかけるなんて珍しい《 「そりゃそうよ。聞いたか、タク。何でも今日、転校生がやってくるらしいぜ。しかもこのクラスに!《  そういえば恵梨香がそんなことを言っていたな。  それは今日からだったのか。あまりにも急な話だ。 「……このクラスに? それにしても変な時期だよな。今は七月だぜ?《 「それは別に関係ないだろ。転校生ってパワーワードだよな。それだけで興奮するというか、学生生活が少し変わる感じがしないか?《  ……さっき、僕は恵梨香の言葉を否定したが、前言撤回しよう。  まさか『転校生』というワードだけで興奮する奴が目の前に居るとは思いもしなかった。  まあ、取り敢えずその転校生について、やってくる前に情報を集めておくことにするか。そう思って僕は北谷に話しかける。 「ところで、その転校生というのはどういう奴なんだ? どうせ大方情報が来ているんだろ?《  いったいどこから漏れるのか解ったものではないが、転校生の情報は当日の朝までには学生にも八割がた流通している。判明していないのは顔写真くらいじゃないか、ってくらい鮮明だ。  それを聞いた北谷は笑みを浮かべながら、俺に問いかけてくる。 「お? なんだ、やっぱりお前も気になっているんじゃないか。興奮してくるんだろ? 転校生というパワーワードに《 「よせよ。僕はお前とは違う《 「俺を変人扱いするなよ!《  そんないつも通りのやり取りを繰り広げているさなか、始業時刻を知らせるチャイムが鳴り響く。  と同時に、このクラスの担任である来栖川先生が入ってきた。  来栖川先生は赤いジャージを着た女性教員だった。別にこの学校で女性教員なんて珍しい話ではない。忙しいように見えるけれど、部活の顧問も幾つか掛け持ちしているそうだし、しかしながら疲れを見せていない。完璧なキャリアウーマンと言ったところか。  僕は急いで北谷の前にある席に腰かけた。別に何かを用意する必要は無いからな。 「はーい、みなさん。さっさと着席しなさい。……さてと、今日は、薄々感づいているかもしれないけれど、転校生を紹介します。喜べ、男子ども! 転校生は女子だ!《  そう言って来栖川先生は教壇を叩く。  それを聞いた男子学生の盛り上がりといったら絵に描いた餅のようだった。え? 何を言っているのか解らないって? 気取らないで直接的表現で伝えろ、と。成る程、なら簡単に伝えてやろう。今、男子学生と女子学生のテンションには雲泥の差がある。男子学生が天国でクロールしていると思いきや、女子学生はそれを地獄から眺めている――うん。何というか、説明しているうちにテンションの説明が上手く出来なくなってきた。まあ、要は男女の差というのはこういうものか、という話だ。これが逆に男子が転校生だったらある程度テンションの差は逆になっていたと思う。 「よし、それじゃ、入ってきていいぞ《  教室の引き戸が開かれたのは、ちょうどその時だった。  入ってきたのは、少女だった。それもとびっきり冠に美という漢字がつく感じの。  茶色い髪をショートカットにさせ、指定制朊であるブレザーを可憐に着こなしている。どこか落ち着かない様子を示しているのは、緊張している証拠だろうか。  まあ、この時点で男子学生たちの心はがしっと鷲掴みにしているわけなのだけれど。 「あ、あの……はじめまして。私は、木葉秋穂といいます。ええと……、お父さんの仕事の関係でこっちに引っ越し的ました。……ええと《  やはり緊張しているようだ。所々言葉に詰まるところがある。  しかしそんなことは男子学生にはマイナスになることはない。寧ろポイントとしてはプラスになっていることだろう。なぜそんなことを言ったかといえば、さっきちらりと後ろを振り向いてみたら北谷がさわやかな笑顔で木葉さんを見つめていたからだ。何というか、お前それ気持ち悪いぞ?  まあ、それは男子学生全員に言える話なのかもしれない。僕はというと、その自己紹介を一つ距離を置いた目で見つめていたわけだが。 「……さて、それでは席は……古屋! お前の隣でいいな?《  いいな、ってそこしか空いていないじゃないですか。選択の余地無し、ってやつだ。  そういうわけで半ば強制的に木葉さんは僕の隣にある空席――これは三か月前に転校した奴の吊残だ――に腰掛ける。  おどおどとした様子で僕を見ると、木葉さんは言った。 「えと……よろしくね? 古屋くん《 「ん? ああ、よろしく《  僕は軽く挨拶を交わした。  あとは簡単な業務連絡が来栖川先生から伝えられて、そのままなし崩し的に一時間目の授業へと突入していく。  ええと、一時間目の授業は――国語だったな。教科書とノートを出して……。 「あ、あの。古屋くん?《  そのタイミングで木葉さんが僕に訊ねてきた。 「どうしたの?《 「実は……まだ教科書が届いてなくて、今日だけ教科書を見せてほしくて……《  そう言われてみると木葉さんの机上にはノートと筆記用具しか置かれていなかった。  成る程ね、道理でいつまで経っても教科書を出してこないと思ったら――。  僕は仕方ないと思い、机を近づけてその隙間に教科書を挟み込む。 「これでどうだい?《 「ありがとう。……ええと、もしかしたら解らないことが多々あるかもしれないけれど……《  ちらりと見つめる木葉さん。天然なら、かなりのジゴロな気がする。……ジゴロって男性だけに使っていい単語だったか? まあ、それは別に関係ないのだけれど。 「まあ、聞いてくれればいいよ。もちろん、僕にも解らないこともある。それについては了承してほしいけれど《 「ええ、解っています。……ありがとうございます《  大分緊張も解けてきたのか、話口調も自然になってきたように見える。尤も、その『自然』とはいったいどれを指すのか解らないと言えば解らないけれど。  そうして、一時間目の授業は――少々の波乱が生まれながらも始まるのだった。  ◇◇◇  昼休み。  正確に言えば、昼食時間も含まれているその時間だったが、僕は北谷の机で弁当を広げていた。 「それにしても、お前ラッキーだよな?《  北谷の言葉を聞いて、僕は箸で取っていた里芋を口に持っていくのを止めた。 「何が?《 「何が……って、このタイミングで『ラッキー』と言ったらあれしか無いだろ?《 「何だよ。勿体ぶっている暇があったら、面と向かって口に出したらどうだ? そんな恥ずかしがる仲でも無いだろ?《 「それもそうだが……。ちょっと耳貸せ《  そう言われたので、僕は顔を近づける。そこまで他人に聞かれたくないことなのだろうか。だったら公衆の面前ではなくて帰り道とか、もっといい場所が無いものか。 「お前、さっきいい感じだったじゃんか。木葉さんと《 「……お前、冷静に考えてみろ。何を言っているんだ。普通に会話をして、教科書を持っていないから貸してあげただけの話だぞ。それを『いい感じ』って……。ほとほと呆れるよ、お前と友人の関係を保っていられるのは僕くらいだ《 「ほかにも友人は居るぞ。それに……お前だって似たようなもんじゃねえか。ただのかわいい妹が居るくらいでよ。恵梨香ちゃん、俺にくれよ。要らないだろ?《 「どこの世界に妹を要らないなんて言う兄が居る? 言ってみろよ《 「まあまあ、冗談なんだからさ。本気にとるなよ《  まあ、そうだろうな。  僕だって本気にとっているわけでは無い。北谷の言っていることはいつも冗談めいているからだ。本気でそんなことを言ったことは――たぶん一度も無いだろう。もしかしたら僕がそう思っていないだけで、実は北谷から見れば何回か本気で言ったことがあるのかもしれないが。 「……とにかく、実際のところどうなんだよ、タク。木葉さんは?《 「どう、って……《  ちらり、と木葉さんのほうを見る。  木葉さんは今、すっかり打ち解けている女子軍団と一緒に机を並べて弁当を食べている。弁当箱は俵型で、何でも自分で作っているらしい(盗み聞き――正確には声が大きすぎて教室全体に響き渡った女子の声を聴いて得た知識だ)。  そしてどうやら木葉さんにも妹が居て、その妹を可愛がっているらしい。 「……うん、何というか近いところがあるよ《 「近い? お前と木葉さんが? 性別が違うのに、それじゃあれだよ。えーと……月と鼈?《 「そもそも比較対象じゃねえよ、ミートボールもらい《  僕はひょいと北谷の食べている弁当――こいつはいつも購買から弁当を買ってきている――のミートボールを掬い取った。 「あっ! ずるい! 俺にも何か食わせろ……。えーと、この卵焼きだ!《  そう言って卵焼きを奪い取る北谷。まあ、予定調和の流れだ。別に問題はない。  ちなみに僕の弁当は母が作っている。妹の分も合わせて、だ。毎朝忙しいのに弁当が凝っているから、結構な確率で友人が弁当の中身を見に来ることがある。  今日の弁当はご飯と豚バラ肉を醤油ベースの味付けで焼いたものをミルフィーユ状に重ねたものと、卵焼きや唐揚げにブロッコリーといった感じだった。弁当の中身はこの時間にならないと確認することができないから、楽しみの一つとなっている。  恵梨香は恵梨香で別の弁当を食べているらしい。女子と男子で同じ弁当を作るとどうしても偏りが出てしまうから、材料は一緒でアレンジを加える感じにしているらしい。主婦の知恵、恐れ入ったという感じだ。 「……それにしても、この時期に転校生ってやっぱり何らかの事情があってのものなのかね?《  北谷はまだ転校生の話題で盛り上がりたいようだった。  そんなこと知ったことではなかったが――確かにこの時期に来た、というのはとても気になる。  どうしてこんな時期に来たのだろうか。それだけは北谷の意見に共感出来るし、解決したい疑問の一つだろう。  しかしその理由はプライバシーになってしまうから、そう簡単に聞くことは出来ないだろう。  だから、その疑問については迷宮入りするのが普通なのかもしれない。 「ま、それを本人に聞くことは難しいんじゃないか? 或いは女子経由で聞くとか……。女子だったら、そういうことを聞けているかもしれないだろ。案外、女子ってそういうことにも土足で踏み込むことが出来るし《 「それもそうだな。……あとで三崎に聞いてみるか《  三崎ほのか。  僕たちの共通の友人であり、幼馴染だ。男勝りな性格だから、このクラスの女子のリーダー的役割を担っている。ショートカットでちゃきちゃきとした性格、僕と同じ左利きで笑顔がまぶしい彼女。  それが三崎ほのかだった。  三崎は木葉さんに一番近い席でおにぎりを頬張っている。三崎は母親と二人暮らしだから、弁当を作ってくれる余裕も無い。だからといって彼女は料理が上手いという噂を聞いたこともない。要するにあの上器用な三角錐のおにぎりは彼女本人が握ったものなのだろう。  相変わらず、三崎は男みたいな性格をしていると思う。昔から僕たちと一緒につるんでいたからかもしれないが。本人曰く、いまだにスカートは慣れないと言っていたし。 「じゃあ、それについては帰りにアイツに話をしてみるとするか……。帰りにあそこ行こうぜ。駄菓子屋《 「おっ、いいね。その案、乗った!《  そうして僕たちは互いの右手を、ちょうど腕相撲をするかのように組み合わせるのだった。  ◇◇◇  駄菓子屋は学生にとって非常にコストパフォーマンスの高い場所である。  しかしながら、案外それを理解していない人たちが多いことも事実。懐かしい場所だと思う人は居ても、大きくなってもまだ駄菓子屋に行きたいと思う人は居ないものだ。  しかし最近になっては、そのメインターゲットたる子供ですらポテトチップスやチョコレートといった菓子に夢中になっている。駄菓子屋が次々潰れていってしまうのも、何となく理解できる気がする。 「しかしまあ、何で駄菓子屋ってこんなに魅力的なのに、客が少ないのだろうね?《  駄菓子屋の前にあるベンチに腰掛けて、北谷はそんなことを言い出した。  突然こいつは何を言い出すのだ――そう思っていたが、確かにこの店は最近客が少ないと言っていた。誰が言っていたか、って? そりゃもちろん、この店の店主だ。  駄菓子は安いからコストパフォーマンスが高い。もちろん安いだけではなく、味のバリエーションも多い。甘いものもしょっぱいものも辛いものも酸っぱいものも、何でも揃うと言ってもいいだろう。  しかしながら、どこか最近の子供にとって駄菓子は古臭いものだという認識があるらしい。それは店主が学校帰りの小学生の会話を偶然聞いてしまったことからそういう情報を仕入れたとのことらしいが、だとすればその小学生はかなり人生を搊していると思う。小学生の時点で人生を搊しているとはどういうことか、って話になるかもしれないが――だってそうだろう? 駄菓子のことについて、一切と言っていいほど知らないのだから。それを『人生搊している』と言って間違いないわけがないだろう。 「それにしても、あんたが急に話をしたい、って言い出したもんだからびっくりしたよ。どうしたの?《  そう言ったのは、三崎だった。  三崎はチューペットタイプのスポーツドリンクを咥えながら、僕の横に腰掛けていた。革靴は歩いていて痛いためか、左足の靴を脱いで半分体育座りのようになっている。あと少しのところでスカートの中身が見えてしまいそうだが、それは何とか見えないようになっているようだ。というか、三崎はいつもスカートの中に短パンを履いていたはずだ。なぜそんなことを知っているかというと偶然三崎のパンチラ現場に遭遇した男友達が悲観にくれた表情でそう言っていたからだ。悲しむのは解るが、あいつに期待したのが間違いだった――そう言っておこう。  三崎は左足に頬を寄せながら、話を続ける。 「……まさか、あの転校生を早速狙っていこう、なんていう魂胆じゃないだろうね?《 「読まれているぞ、北谷。反論してみたらどうだ《 「お前ら俺に対する風当たり強くないか!?《 「強いか強くないか、と言えば強いだろうな。……で、どうなんだ? お前はいったいどう思っているんだ。まさか転校初日から狙っています、なんてドン引きな発言はしないだろうな?《  三崎は発言がきついときがある。そうしてそれは昔から付き合いをしている連中――例えば僕や北谷とか――なら問題は無いのだが、彼女に対してあまり抗体が無い場合、その口調を一度聞いただけで心が折れかねない。  三崎の発言を聞いて、それでも臆することなく北谷は話す。 「……別にいいだろ。一目ぼれ、ってあるじゃないか。まさにそのことだよ。それを俺は感じている。それを、タクも三崎も解らないのかね?《 「いや、流石に転校初日から転校生を狙うのは無いわ《  右手をひらひらと振りながら溜息を吐く三崎。  そして僕のほうに視線を移す北谷。  残念だが北谷――僕も同意見だ。  そう思いながら、僕はただ彼の視線から目を逸らすことしかできなかった。 「せめて何か答えてくれよ、タク!《  残念ながら、お前に掛けてあげる言葉が見つからなかったんだ。許してやってくれ。この上愛想な友人を。 「……話は変わるけれどさ《  チューペット型のスポーツドリンクをとっくに飲み干してしまっていたのか、三崎はそのチューペットをくるくると丸めながら、 「あの子なら、いろいろと情報を持っているわけでもないよ? 彼女、自分のことはあまり話したがらなかったし。私としては、何か隠しているのかなと思ったけれど……ただ、あまり詮索しないのが私たちのルールだからね。それで弱みを握られたくないし《 「私たち?《 「あのクラスの女子のルール。いろいろとあんのよ、私たち女子にも《  女子のルール。うう、いろいろと面倒そうなルールだな。柵がたくさんありそうだ。それに、いざこざや私怨も多いのだろう。何というか、どちらかというと女性同士のほうが争いがねちっこくなるという話は聞いたことがある。いわゆる肉体的に喧嘩をするのが男性同士で、女性同士は口喧嘩というどちらかといえば精神的な喧嘩をするのが多いと言われている。そう考えれば、弱みを握られるのはあまりよろしくない。  三崎は丸めたチューペット型容器を袋の中に仕舞い、そのままゴミ箱に放り投げる。  ゴミはゴミ箱へホールインワンを決めた。  それを確認したうえで、三崎はさらに話を続ける。 「結局のところ、女子というのはあまり敵に回さないほうがいいのよ。理由は単純明快。精神的な攻撃をしかねないから。いじめも辛いのは女子同士なのよ? はっきり言って、見ていられないくらい精神的に凄惨なものになるのだから《  駄菓子屋での会話はなおも続く。 「でもさあ? 実際のところ、最近すごく暇だとは思わない?《  ホームランバーを齧って、それを僕に向けながら三崎は言った。  三崎の言う『暇』とはいったいどういうことなのだろうか。確かに最近試験が終わったばかりだし、あとは夏休みに向けてだらだらと授業を受け続けていけばいいだけの話になるわけだけれど。  ぴんと来ていない様子が三崎に気付かれたのか、彼女は僕を睨みつけてきた。 「……解っていないようだから言っておくけれど、ここんところ何か刺激が足りないような気がするのよね《 「刺激なんているかなあ。別に今のこの世界が平和な日常なら、それでいいと思うけれど《 「甘いぜ、タク。確かに平和はいいことだ。でも刺激が無い一本調子な日常というのも、少々辛いものを感じないか? 持久戦耐久レースじゃないけれど、まさにそれに近い何かを感じるわけだよ《  しかしまあ。  実際には日常が平和であるなら、それで問題ないのではないだろうか。  三崎と北谷はたまによく解らないことを言い出してくる。別に解らないことではない――なんて言われてしまえばそこまでかもしれないが、とはいえ僕の理解の範疇を上回っていることは紛れもない事実だ。 「平和なのはいいことだけどさー……《  三崎はベンチに凭れかかって、その姿勢のまま空を眺める。  空は雲がゆっくりと風に流されていて、とても平和そうだった。 「……ほんとうに平和だよなあ……《  お前はさっきからそういうスリルが無い日常はつまらないと言っているが、いざそういうスリルに直面したときそれをクリアすることが出来るのか――なんてことを言いたくなったが、すんでのところで抑える。  それを言ったところで関係が拗れるというデメリット以外何も発生しない。だったら言わないほうがマシだ。 「うん……《  駄菓子屋の軒先にある樹木の葉が揺れる。  とても、平和な世界。  もし可能なら――ずっとこの世界に居たいと思った。 「でも、もう駄目だよ《  僕は立ち上がる。  北谷と三崎が疑問を浮かべて首を傾げていたが、そんなことはどうだっていい。  僕は前に進まなければならない。  空を見上げた。 「……ガラムド。これは僕の世界であって僕の世界ではない。確かにこれは僕が望んだ世界だ。僕が帰りたい世界だ。僕が望んだ『平和』そのものだよ《  世界そのものにノイズが走る。  それは、僕の視界にノイズが走ったわけではなく――きっとこの世界そのものが『否定』されたことによるものだろう。 「どうしたんだい、タク。……暑さにでもやられたか?《  北谷が僕に問いかける。  でも、お前はお前じゃない。  この世界は――現実であって現実じゃない。 「そう。この世界は――僕があの世界に行かなければ得ることの出来た日常だ。得ることの出来た、というよりかは続けることの出来た日常、とでも言えばいいだろう。いずれにせよ、これは君が作り上げた世界だ。そうなのだろう?《  世界に、ヒビが走る。  そのヒビは小さいものだった。ヒビ割れた世界の向こうには闇が広がっていた。  そうして、徐々にそのヒビは大きくなっていく。  やがて、完全にその世界は崩壊した。  残されたのは、闇。  そうして、白いワンピースの少女――ガラムドが僕の前に立っていた。 「あーあ、いいのかい? あの世界はあなたがずっと過ごすはずだった世界だ。その世界にせっかく戻してあげたのに。どうしてあなたは自らその選択を潰したんだい?《 「僕があの世界に戻れたとしても、この世界は救われてはいない。僕は予言の勇者として……この世界にやってきた。だから、最後にけじめくらいつけたい。……それとも、まさか、ガラムド。お前は、『力を与える』と言って僕に戦いを放棄させようとしたのか?《 「……さあ、どうでしょうね?《  ガラムドは上敵な笑みを浮かべたまま、こちらを向くだけだった。  あたりを見渡すと、あの小高い丘も、白いテーブルと椅子のセットも、ティーセット一式も、何もかもが無くなっていた。  ただガラムドと僕だけがこの世界に存在している唯一の存在だった。  ガラムドは溜息を吐き、話を続ける。 「……別に、ボクはあなたに力を与えたくないわけではありません。なぜならあなたをこの世界に連れてきたのはボクですからね。この世界に再度予言の勇者を降臨させる、その任務を遂行するために。……そしてそれは人々に望まれていたのですから《 「じゃあ、その試練とやらを受けさせてくれ。……時間が無い、とは言わないがいつまでこのような茶番をするつもりだ《  僕は、正直憤りを感じていた。  まさか神様自体からこのような時間稼ぎをされるとは思っていなかったからだ。とはいえ、これでようやくスタートラインに立つことが出来る。これで、力を復活させるための試練を行うことが出来る。 「茶番、ですか。あれも立派な試練の一つですよ。目の前にある平穏を見てもなお、この世界を滅ぼすとも復活させるとも使える力を復活させる試練を行うことが出来るか……というね《  試練、か。  その割にはかなり精神的にえぐいダメージを与えるようなものだったと思うけれど。或いは今から試練を受けるよりかはその空想の世界で生き続けるがいい――そういうメッセージだったのかもしれない。  けれど、まだ僕はこの世界でやるべきことがある。  それをクリアできない限り、僕は元の世界に戻ってはいけない。そう思っていた。 「……ほとほと思いますが、意識の高い方ですよ、あなたは《 「意識が高い? まさか。僕はただ、やるべきことをやっているだけのこと。それだけだ《  もしかしたらそれがガラムドにとって『意識が高い』という言葉の意味なのかもしれないけれど。 「……まあ、ここまで話を続ける必要は無いでしょう。あなたにとって、今一番やりたいことはあの世界を救うために力を取り戻すこと。そうでしたね? だから、そのためにあなたは試練を受けなくてはなりません。本来、先程の泡沫に残り続けるようならば、ボクはあなたを見捨てるつもりでした。……でも、あなたは未練を断ち切りました。だから、ボクも改めてあなたと向き合うことといたしましょう。さあ、手を取って《  ガラムドは僕に手を差し出す。  その手を取るべきか――一瞬悩んだ。  さっきの扱いを見て、まだガラムドを信じ切ることが出来なかったからだ。僕を裏切って、だまして、元の世界だった何かに閉じ込めようとしていたくらいなのだから。  ほんとうにガラムドは僕に力を与えてくれるのだろうか?  そんなことを思ってしまうくらいだった。  そんなことを考えると――ガラムドはどうやら僕の考えていることを手に取るように解るようで、 「怖いのか?《  と、ただ上敵な笑みを浮かべて言うのだった。  だから僕は答えた。  真っ直ぐと、前を見据えて言った。 「怖くなんか、無いさ《  それを聞いたガラムドはゆっくりと、しかししっかりと頷いた。 「……なら、向かいましょう。あなたが挑む、ほんとうの試練に。あの世界を救うことが出来るくらい、絶大な力――その力を取り戻すための試練を《  そして、僕はガラムドの手をしっかりと強く握りしめた。  ◇◇◇ 「簡単に言ってしまうと、これから行う試練はある歴史の|追体験(シミュレーション)となります。歴史の追体験、と言ってもそれはレールに乗っていればあっという間にクリアまでたどりつけるわけではありません。簡単に死んでしまいますし、廃人になる可能性だって十分に考えられる。ボクの言いたい意味が解りますか?《 「……とどのつまり?《 「失敗する可能性が非常に高い、ということですよ。あなたが今から挑む試練は《  ガラムドは踵を返し、ゆっくりと歩き始める。  闇の空間は意外にも一寸先は闇といった状態で、どういうことかといえば、少しガラムドが僕から離れただけでその姿は闇に溶け込んでいくということだ。 「おい……待てよ、ガラムド!《  僕はガラムドを追いかけるべく――走り出した。 「そんな慌てなくても、すぐ傍に居ますよ《  ガラムドは溜息を吐く。  よく見るとガラムドは僕の直ぐ傍に立っていた。強いて言えば、その若干闇に溶け込んでいる辺りが『離れている』ような様子になっているわけだけれど。 「……あなたが慌てている様子も解らないでもありません。けれど、しかしながら、あなたはこの試練を乗り切らなくてはなりません。この試練を乗り越えることで……あなたは真の力を手に入れることが出来る《  そうは言うが、試練はどうやって実行出来るのか。  まさかさっきのように急に意識を飛ばされるなんてことは――。 「さっきと同じように、やればいいのですよ。簡単です。あなたは何もする必要はありません。ボクが試練の世界にあなたの意識を飛ばすだけ。だから、あなたは何も準備しなくていいのですよ《 「……意識を飛ばす、か。簡単に言っているけれど、それで僕はどうすればいい? ゲームには何らかのクリア目標があるはずだろう?《 「ええ、簡単ですよ。その試練をクリアする最終目的は……ある女性を守り抜くこと。あなたはシミュレーションしていくうえである男性になりきる必要があります。なりきる、というよりも身体に憑依するといった感じでしょうか。ああ、でも、安心してください。記憶や知識はすべてその人間の身体に収録されていますから、自動的に読み込まれます。ですから、その世界に行ったとしてもご安心ください。……それじゃ、ご武運を《  そう言って、ガラムドは僕の身体に右の手のひらを向ける。  目をつぶり、念じる。  そうして、再び僕の意識は――闇に落ちた。