僕は目を覚ました。  目を開けるとそこに広がっていたのは、真っ白い天井だった。僕が昔居た世界ではこれをどう呼ぶか、古くのアニメーション作品でこう言っていたような気がする。そう思って僕はそのフレーズを口にした。 「知らない天井だ……」  文字通り、そこに広がっていたのは見た事のない天井だった。無論、というか恐らくはあれからそれほど時間も経過していないことだろう。推測していけば、ここはリュージュのアジト、そのどこかという可能性が容易に想像できる。  ……まあ、何かそれにしては清潔過ぎる気がしないでも無いのだけれど。清潔さは確かあの場所には見られなかった。待遇が変わって別の牢獄に入れられている可能性も考えられるけれど、あのリュージュがそう簡単に変えるとは思えない。  となると、考えられる可能性があるとすれば……。 「目を覚ましたようですね」  声が聞こえた。そちらに顔を向けようとすると、何かで制限されているのかそちらに顔を向けることが出来ない。 「あー、そうでしたね。顔をこちらに向けることが出来ないんでした。序でに言っておきますと、起き上がることも出来ません。きになるようならば、試しにやってみてはいかがですか?」  そう言われたので、その通りに起き上がろうとしてみる。  しかし彼女の言った通り起き上がるどころか身体を十分に動かすことも出来なかった。いわゆる雁字搦め、というやつだった。 「……やはり、リュージュの関係者か!」 「いいえ? あんなやつと一緒にしないでください。寧ろ私たちは逆の立場に居るのですから」  逆の立場。  ということは、味方? 信じてもいいのか?  そういうことになるのかは未だはっきりとしていない。拘束していることからも良く解る。この人間は未だ信用するに値しないという判断なのだろう。 「……あなたの名前は解りますか?」  素っ頓狂に変な質問をされた。何を言っているんだ、記憶喪失でもしていると思われたのだろうか。名前は覚えている。僕の名前は、 「フル。フル・ヤタクミだ」  異世界での名称もすっかり板についた気がする。結構な回数言っているからかもしれないが。  それを聞いた彼女はゆっくりと頷いた後、手元にあった紙に何かすらすらと書いていった。  続いて、彼女は手元にあった鏡を取り出す。 「この顔は誰の顔ですか?」  鏡に映っている顔は自分の顔以外あり得ない。 「……自分の顔だ」  質問の意図が理解できないまま、そして苛立ちを隠せずにぶっきらぼうに返した。  そして彼女はまたも手元の紙に何かを記載していく。何だ、こいつはいったい何のテストなんだ? 「解りました。それでは、少々お待ちください」  そう言って彼女は扉の向こうへ消えていった。  ……何というか、こちらにも質問をさせてくれよ。  そう言いたかったけれど、それよりも先に彼女が居なくなってしまったので、その虚しい思いだけが残る形となった。  次にその扉が開いたのは五分後のことだった。五分という数字をきっちりと計ったわけではないのだけれど、何となく体内時計で測定したら五分くらいだった、というだけに過ぎない。  それはそれとして、入ってきた人物は彼女以外にもう一人居た。金色の髪に赤い目、臙脂色のローブに身を包んでいた。彼女は暫く会わなかったからか少し大人っぽくなったような気がする。 「メアリー……、久しぶりだね。大丈夫だったかい?」  僕はメアリーにそっと声をかけた。  しかしながら、メアリーは何も言わない。 「メアリー……?」  メアリーは一瞥する。  その冷たい視線を感じ、僕は僅かながら恐怖を覚えた。  もう一人居た彼女から紙を貰い、確認していくメアリー。 「自己認識は問題なし。先程の反応からして他人に関する記憶も問題ないようね。……さて、これからどうしたものか」 「ねえ、メアリー。いったいどうしてしまったのさ。何があったんだよ、あれから。リュージュは? ルーシーは? バルト・イルファはどうなった?」 「……それについては」  メアリーが漸く僕に反応してくれて、ちょっとだけ嬉しかった。  だけれど、その嬉しさは直後に発生した横揺れによって破壊されてしまった。  横揺れが終わって、その直後。  ドタドタ、という足音の後、ノックもなしに扉が開かれた。  入ってきたのは僕の知らない青年だった。年齢は僕より少し上くらい。だけれど、開けて直ぐにメアリーに敬礼したところを見るとその地位はメアリーより低いのだろう。 「失礼いたします! 南の方向からメタモルフォーズによる攻撃を受けました! 至急、船室内甲板へお戻りください!」  焦っているようにも聞こえるその声だったが、対してそれを聞いたメアリーはなおも冷静だった。 「了解。急いで向かう」  メアリーはそれを聞いて大急ぎで部屋を出て行った。 「メタモルフォーズなら、僕も戦うよ! メアリー、ガラムドの書にある魔法を使えばメタモルフォーズも……」 「五月蝿い」  メアリーは僕の言葉を途中で強引に切り上げた。  それが何を意味しているのか、理解できなかった。 「いいから。あなたは何もしなくていいの。なにも、何もしなくていい。あなたにはもう魔法は使わせない」 「それっていったい……!」 「お急ぎください、長官!」 「わかっている!」  やってきた男の言葉を聞いて、駆け足でメアリーは居なくなってしまった。  メアリーの様子がおかしい。  まるで数ヶ月どころか数年近く成長してしまったような、そんな感覚。  そして、そこに、僕だけが取り残されている。 「……なあ、今は、ガラムド暦何年になるんだ?」  僕が居た時代ならば、ガラムド暦2015年だったはず。もしそうであればまだ数ヶ月しか経過していないことになるが……。  少女は告げた。 「ああ、なんだ、そんなことですか」  まるで僕からの質問は聞き飽きたかのような、つまらない表情をして。 「……今はガラムド暦2025年。つまりあれからちょうど十年の月日が流れたということになりますね。……もしかして、今の今までまったく気付かなかったんですか? だとすれば、疑問を持たな過ぎですよ。あなたは」 「……十年?」  十年。日に換算して三千六百日が過ぎ去ってしまった、ということになる。そしてそれは同時に、僕がその時間ずっと意識が無かったということと等しい。だって僕が目を覚ましたのは、ほんとうについ最近なのだから。  ということはメアリーたちもそのまま十年成長した、ってことになる。ええと、つまり……二十五歳になった、ということか? 「十年経過しても、まだ人類はあの災害から立ち直ることは出来ませんでした。オリジナルフォーズの復活、その暴走……。多数の錬金術師や魔術師が力を尽くしました。しかしながら、それでもオリジナルフォーズを封印することは出来ませんでした。当然ですよね、封印する魔法も解除する魔法も予言の勇者しか知り得ないのですから」 「僕は……何をしてしまった、というんだ?」  彼女に訊ねる。恐らく彼女もその『災害』の被害者なのだろう。だから被害者にそれを聞くのは少々心苦しい。  だが、聞かないと何も進まない。理解しなければ、この理不尽の極みと言っても過言ではない状況を対処しきれない。 「たぶん、というか、確実に君はその災害の被害者なのだろう。だから、今から聞くのはトラウマを抉ってしまうことになると思う。だから、言いたく無かったら言わなくていい。けれど、僕はまったく知らないんだ。この世界の現在について」 「何を……しらばっくれているんですか!」  しかし、彼女は激昂した。  正直言って、ここまでは想定の範囲内。  だが、彼女はそれで終わらなかった。  立ち上がると、彼女は僕の横たわるベッドに向かい、そして、思い切り僕の腹部に拳を入れた。  嗚咽を漏らしそうになるのを何とか抑えるが、それでも彼女は攻撃の手を緩めない。  何度も、何度も、何度も、何度も攻撃を加えていく。殴られ過ぎてきっと痣が出来てしまっているかもしれない。それ程に彼女の一撃は重く、そして痛かった。  恨み辛みがあるのだろう、その一撃をただ僕は受け続けるしか無かった。  きっと謝罪したとしても彼女は攻撃の手を緩めるとは思えなかった。それ以上に、先手で僕が何も知らないと言い切ってしまったが故に、何も知らない癖に何を言うのかなどと言われかねない。  だから、僕はただ攻撃を受け続けた。  攻撃の手が止まったのは、部屋に入ってきた誰かが彼女の手を抑えたからだった。  その誰かは僕も見たことのある人物だった。 「ルーシー……? いったい何をしているんだ、君は」 「その台詞、そっくりそのままお返しするよ。ナディアの帰りが遅かったから嫌な予感がしたけれど……、ここまで予想通りに的中してしまうとはね」 「る、ルーシーさん……! すいません、つい怒りがこみ上げてきてしまって……!」 「いいよ。仕方がないことだ。起きてしまったことに怒り、恨み、辛みをぶつけることは人間の行為としては本質的なものだから。……問題としては、殴り過ぎということだよ。君の力なら問題無いかもしれないが、一体何発殴った? 僕や他の男性クルーが同じ行為をしたらフル・ヤタクミは気絶していただろうね」  ルーシーも何か僕のことを他人行儀に言っていた。  いったい僕は何をしでかしてしまったというのだろうか。オリジナルフォーズを復活させてからその後何が起きたのか、僕は知らなかった。けれど、オリジナルフォーズの現在について何も言わないところを見ると今は無力化されているということなのだろうか。 「……取り敢えず、君は休みなさい。それに、やることもたくさんあるだろう? 今、甲板では作戦会議を開いているよ。そして、君にも何かやれることがあるはずだ。招集されていたはずだったから、君も向かうといいよ」 「かしこまりました!」  そう言ってナディアは敬礼すると、そのまま部屋を出ていった。 「さて、」  ナディアが居なくなったタイミングでルーシーは話を始めた。  僕はずっと横になっていたままだったが、それでもルーシーは気にしていなかった。 「……彼女のことを、悪く思わないでくれよ。あれでも被災者の中ではかなり元の生活を取り戻したほうなんだよ。まあ、家屋と家族は戻ってこないままではあるけれどね」 「……というと?」 「オリジナルフォーズ」  端的にルーシーは告げる。 「君も当然のことながら知っているだろう? この世界、最初の出来事として知られている『偉大なる戦い』、それに登場するメタモルフォーズの王だ。正確に言えば、プロトタイプのようなものでもあるが、実際にそれがイコールであるという事実ははっきりとしていない。まあ、それは今の君には関係のない話か」 「関係ない話……になるのか? オリジナルフォーズは、あの後無力化出来たんじゃないのか。さっきの……ええと、」 「ナディアがそう言ったのか」 「そう。彼女がそう言っていた」  それを聞いてルーシーは溜息を吐いた。何か不味いことでも言ってしまっただろうか――と慌てて口をふさぐ仕草をしてみるが時すでに遅し。口は禍の元とも言ったものだ。  それを見たルーシーは首を横に振る。 「別に君は悪くないよ。悪いのは、彼女だ。オリジナルフォーズを無力化と言ったが、正確にはそうじゃない。無力化したのは確かだったが、リュージュはさらに馬鹿馬鹿しいことをしでかした」 「馬鹿馬鹿しいこと?」 「世界の再構築、だよ。オリジナルフォーズは世界を破壊しつくしたのち、入眠した。科学者の推測からして、『飽きたのではないか』と言っていたが……、きっと僕もそう思う。まあ、でもそんなことは人間には関係のないことではあるけれどね。最初に世界を破壊したのはそちらだ。それを飽きたからやめるなどまったく勝手なことだと思うよ」 「世界の再構築っていったい何をしたんだ。それによって、世界はどうなった?」 「それは――」  ルーシーの言葉に僕が耳を傾けていた――ちょうどその時だった。  背後を見つめながらルーシーは笑みを浮かべる。 「……いや、ちょっと待ってもらおうか。フル。それについては未だ話すのはやめておこう」 「なぜだ?」 「上客が来てしまったからね」  ルーシーの言葉を聞いた直後――そこで僕は違和感に気付いた。  ルーシーの背後に立っているのは一人の少女だった。そして、僕はその少女の姿に見覚えがあった。第一に、その少女の姿はルーシーと瓜二つだったことも、彼女が何者であるかを確定づけることだと言えるだろう。 「……ルチア。まさかまた君に会う機会が生まれるとは思いもしなかったよ」  そちらを見ることなく、ルーシーは言った。  対してルチアは不敵な笑みを浮かべたまま、 「それは私も、よ。お兄ちゃん。結局のところ、面倒な話になるのは仕方ないことなのかもしれないけれど、未来のためには仕方ないことなのかな。受け入れて」 「受け入れる……いったい何を?」 「予言の勇者、フル・ヤタクミの確保……かな?」  視界が眩んだ。  そうしてゆっくりと僕の視界は、縮まっていく。闇におおわれていく。 「……ルチア。いったい君は何をしたというのかな。まあ、フルの状況を見れば何をしたかは何となく判明する事実ではあるけれど……。そうだとしても、これは許せないよ。ルチア、君はいったいどちらの味方だ?」 「面白いほうの味方ですよ、私は。私にとっての、面白いと思えるかどうか。それが味方になる条件なのですから」  そして、その言葉を最後に、僕の視界は完全に闇へと消えた。  ◇◇◇  ルーシーとルチアの会話は、フルが眠りについたあとも続いていた。 「ルチア。君はフルを眠らせてどうするつもりだ? まさか、兄妹の秘密の会話をするためにフルは邪魔だったから、なんて半分ロマンティックなことは言わないでおくれよ?」 「そんなこと、私が言うとでも思っていたのですか?」  ルチアは鼻で笑うと、指を弾いた。  それは何かの合図にも思えたが、しかしながら何かが起きることは無かった。  ルチアの挙動に構えていたルーシーは肩透かしを食らった気分だったが、 「……ルチア。考えてみれば解る話だろう。リュージュと僕たち、どちらが世界のためであるかということだ。人間のことを考えているのは、紛れもなく僕たちのほうだ。世界にとってベターな選択を出来るのはリュージュじゃない、僕たちだよ」 「それはただの言い訳に過ぎないかしら。リュージュ様が世界を作ろうとも、お兄ちゃんが世界を変えようとも、真実はたった一つだけ。あの『未来視の黙示録』に記載されていることを……どちらが成し遂げるのか、というだけ」 「未来視の黙示録……?」  ルーシーは首を傾げ、ルチアに訊ねる。  しかしルチアはそれについて答えることは無く、 「まあ、私はお兄ちゃんと話をつけにきたわけじゃないんだよ。私にも一つの目的がある。それを達成することで……、世界は『浄化』される」 「浄化、か。まあ、それは別に問題ないことだ……なんて言えるとは思えないね。アドバリー家の家訓を忘れたか? 『私心ではなく、正義を貫くこと』と……」 「それはただの古臭い習慣に過ぎないよ、お兄ちゃん」  ルーシーの言葉を、ルチアは一閃した。  ルーシーは目を瞑り、さらに話を続ける。 「古臭い習慣、か……。でも、それをずっと守っていくことで僕たちが居る。アドバリー家がずっと続いているのであるとすれば?」 「それは今までの結果に過ぎないよ、お兄ちゃん。結局のところ、そのままじゃ何も変わらない。ならば、世界を変えるしかない。正義がどうだとか、そんなことはどうだっていい。ルールでも、しきたりでも、そんなものは……守るためにあるわけじゃないのだから」  言って、ルチアは再び不敵な笑みを浮かべる。  その時だった。  ルーシーの背後で爆発があった。  急いで後を振り返ると――そこに立っていたのは見覚えのある男だった。 「お前は……バルト・イルファ!」  赤い服に身を包んだ赤い髪の男。  その男が、フルの身体を抱きかかえていた。 「貴様、フルを……!」  ルーシーは武器を手に取ったが、残念ながらルーシーたちは武器を持ち歩いていない。  それを知っているか否か、バルト・イルファは笑みを浮かべる。 「どうやら、予言の勇者の取り巻きは十年以上経過しても何も強くならないどころか、人間の柵に囚われていて、何も出来ないようだね……。残念なことだ。それで世界を救おうと言っているのだから、阿呆らしい」 「果たして、ほんとうに阿呆らしいのはどちらかな?」 「言っていろ。それが、君の思う道であるとするならば」  そして、バルト・イルファは指を弾くと――バルト・イルファとルチアの姿は無かった。  それはまるで狐につままれたような気分だったが、そうも言っていられないのが現実。  彼は落胆している様子を見せることなく、溜息を一つ吐いて、部屋を後にした。  ◇◇◇  目を開けると、そこも見たことの無い天井だった。青白い光は恐らく蛍光灯の一種だろうか。とにかく状態を確認しようと思ってゆっくりと起き上がる。  そして僕は一瞬でそこが先程の部屋とは違う場所であることを理解した。  何もない部屋だった。  足元にはバルト・イルファが立っていた。 「……バルト・イルファ、お前、いつの間に……!?」  気付かなかった。いつの間に部屋に入ったのか、或いは最初から部屋に入っていたのか。そもそもここはどこなのか。 「目覚めたか。……とにかく、身支度を整えて来ると良い。君を呼ぶ人がいるからね」 「それは、いったい……?」 「それを今言うと、楽しみがなくなってしまうだろう?」  仕方ない。  とにかく今の僕には解決の糸口が見えてこない。それを考えると先ずは情報を収集する必要があるだろう。そう思って、僕はバルト・イルファについていくこととした。  バルト・イルファについていく僕は、ずっと通路を歩いていた。その通路はどこか見覚えがあるようにも見えるが、全体的に汚れているように見えた。その汚れは血か、吐瀉物か、それ以外にも思えるが……はっきり言って、あまり考えたくない。  外の景色を見てみたいところだったが、ずっと窓が無い空間を歩いているため、外を見ることは出来ない。景色を眺めるには直接外に出るしかないようだったが、それはそれで面倒なはなしだった。いったいどうすればいいのだろうか……。 「あら、目を覚ましたの」  前からやってきたのは、ルチアだった。 「つい先ほどね。どうだい、君も何か話すことは?」 「無いわよ。そんなこと。別に義理も無ければ温情も無い。ただこの世界を救う救世主、なのでしょう? だから助けただけ。正義なんてどうだっていい」 「君はそういう人間だったね」  バルト・イルファは肩を竦め、フランクに手を振った。  対してルチアは不愛想な様子を見せて、そのまま立ち去って行った。 「彼女はいつもああだからね。敵にああいう態度を示すならまだしも、味方にもあの態度だから。彼女を敵視する人間は多かっただろうねえ。いや、人間だけじゃない。別の存在だって……」  そこまで言ったところで、再び歩き始める。 「おっと、時間の無駄だ。このまま話しているといつまでも語ってしまいそうだ。そんなことをしたらきっと『彼女』に怒られてしまうだろうからね」  そう言って、バルト・イルファは再び前を向いた。  それを見た僕は――僕を呼んだ相手が誰なのか考えながら、バルト・イルファの後についていくのだった。  ◇◇◇  僕とバルト・イルファが到着した場所は、『暗闇』と表現するに等しい場所だった。  簡単に言えばそう一言で片づけられる場所だった。 「ここは……」 「会議場。かつてのエノシアスタと呼ばれた町では、そういう目的として使用されてきたらしい。催事場、と言ってもいいかもしれないけれど、今はその現状をはっきり言って留めてなどいない」 「エノシアスタ、って……あの科学技術の最先端を誇ったと言われるあの都市のことか……?」 「そう。エノシアスタはかつて科学技術の最先端を常にリードしていた。それゆえに、『世界の研究所』とも揶揄された時代があった」  気付けば、長机の向こうに誰かが立っていた。  聞いたことのある声だったが、その時点では何者か判断する材料が非常に少ない。推論を立てずに、そのまま話を聞くこととした。 「フル・ヤタクミ。時が来たら、オリジナルフォーズを封印するため、ある場所へ向かいなさい」  日が入り、少しだがその人間の姿を確認することが出来た。  その人間は――サリー先生だった。 「サリー……先生?」 「驚くのも無理はないわ。私はずっと、あなたたちと接触を絶っていたからね」  溜息を吐いたサリー先生は、昔出会ったサリー先生とまったく変わらない様子だった。  サリー先生の話は続く。 「あなたが十年前、ガラムドの封印を解いてオリジナルフォーズをこの世界に放ってしまった。そのあと、世界の魔術師と錬金術師が知恵を振り絞って何とか無力化することに成功した。まあ、その大半の理由はオリジナルフォーズが力を失ったから、という理由に落ち着いてしまうのだけれど。いずれにせよ、オリジナルフォーズは今力を蓄えている段階にある。……その言葉の意味が解るかしら?」 「オリジナルフォーズは近いうちに……十年前と同じように暴れるだろう、ということですか」  言葉に、サリー先生は頷く。 「その通り。けれど、十年前のような優秀な魔術師や錬金術師の殆どはかの災害で死んでしまった。つまりこの意味が解るかしら。この世界に居る魔術師や錬金術師ははっきり言って優秀とは言い切れない。そんな人材ばかりで、この世界を救うことが出来るのか? 答えはノー、よ」 「いやにはっきりと言い切りますね……」 「あなたがオリジナルフォーズの封印を解いた結果ですよ」  サリー先生ははっきりと言い切った。  そして、僕ははっきりと示されたその事実を飲み込めきれずにいた。  当然といえば当然だったのかもしれないけれど、サリー先生にとっても、いや、この世界の人間にとっても――その怒りは当然だったのかもしれない。 「オリジナルフォーズの封印を解いた……のは、僕だったのか」 「当然でしょう。あの魔法はガラムドの書にしか記載されていなかったと知られている。そして、ガラムドの書を持っていたのはあなただけ。つまりその意味が理解できるかしら? 理解できないような知能は持ち合わせていないと思うのだけれど」  踵を返し、サリー先生はさらに話を続けた。 「近いうちに、バルト・イルファとともに『封印の地』へ向かいなさい。そこはかつてリュージュが根城にしていた古代研究所があった場所。そして、偉大なる戦いでオリジナルフォーズが封印されていた場所。今も、オリジナルフォーズはそこに居る。もっとも、今は、封印は解除されていて、眠りについている状態にあるのだけれど」 「眠っている状態……ということは、今はまだ暴れだす状態には無いということか?」 「その通り。とはいえ、いつ目覚めるかはっきりとしていないけれどね。うちの研究員に調べさせても全然答えが導き出せない。ここには古代のオーパーツたるコンピュータが眠っているというのに。それを使ってもなお、解らないことがあるということなのかもしれないけれど」  そうしてサリー先生はゆっくりと姿を消した。  バルト・イルファと僕だけがその場所に取り残される。  会話は、生まれない。  当然のことだろう。十年前、僕と彼は敵同士だった。僕は世界を救うために、バルト・イルファはリュージュの野望を達成させるために、それぞれがそれぞれの意志をもって戦っていた、はずだった。  しかし、十年後の今。僕とバルト・イルファは同じ施設に居た。  いや、そもそもこの状態ではサリー先生が味方である保証もない。かといって敵である確証も掴めていない。まだ状況証拠と物的証拠があまりにも足りないからだ。  早くこの状態から脱出したいところだったけれど、先ずは今の状況を冷静に見極める必要がある。 「そのためにも、情報が欲しい」  僕は気付けば、そんなことを呟いていた。 「……外の世界を見せてあげようか」  助け船を出したのは、ほかならないバルト・イルファだった。  ◇◇◇  扉を抜けたその先に広がっていたのは、すべてが赤で覆われた世界だった。 「これは……」 「これは新しい世界の始まり、その第一歩とも言われている。色々な呼び名があるけれどね、例えば『復りの刻』、例えば『ニュー・エイジ』、例えば『エリクシル』……。その名前はたくさん存在しているけれど、正体は一つだけ。はっきりと決定している」 「それは、いったい……?」 「構成要素は人間のそれと変わらない。つまり、もともとは人間だった、ということだよ。その意味が理解できるかな? まあ、別に理解しなくてもいいけれど」 「……オリジナルフォーズが人間を液状化させた、ということか?」 「その通りだ。オリジナルフォーズが放つ息吹(ブレス)。それに触れた瞬間、人間やその他もろもろの……『膜』とでも言えばいいのかな。それが破裂するらしい。中身は内臓とか血液とかそういうものがあるのだけれど、その膜が壊れてしまうと、動物は液体と化してしまう。液体の名前は何というのかは解らない。ただ、その液体はどのような構成であるかははっきりとしないけれど、人間や動物の構成成分がぐちゃぐちゃに混ざってしまったようなもの……そう言われているよ」  オリジナルフォーズが、これをやった。  それを聞いてもなお、僕はオリジナルフォーズが何をしでかしたのか、理解できなかった。  いや、それ以上に。  この世界に何が起きているのか、その一つでも収集出来れば……と考えていたが、はっきり言って手に入った事実のスケールが大きすぎた。だから直ぐに理解することが出来ない、と言えばいいだろう。  それを見ていたのか、バルト・イルファは小さく溜息を吐いて、 「あれを見るがいい」  そして右手を上げると、遠くのどこかを指さした。  そこは空を突き抜けるような赤い光が大地に突き刺さっているようにも見えた。 「あれは……」 「あれが、オリジナルフォーズが眠りについている場所、『封印の地』だ。あの場所はオリジナルフォーズが眠りについてから十年間、常に光が空に伸びている。理由ははっきり言って理解できない。オリジナルフォーズの墓標なのか、それを示すモニュメントなのか。それとも、オリジナルフォーズを忘れないように、という警告を示しているのか……。色んな人間が説を唱えていたが、それでも真実は解らない」 「墓標……」  墓標であれば、ほんとうにいいことなのかもしれないが。  僕はそんなことを思いながら、改めて光の柱を眺める。まるでそれは十字架のようにも思えた。  あれを、オリジナルフォーズを、僕はどうすればいいのだろうか。  それをずっと考えながら、空をぼんやりと眺めていた。  世界がすべて赤に染まっている光景は、はっきり言って異質だった。世界は十年前の風景そのものだったから、数か月生きてきた世界の様子が今もフラッシュバックする。  けれど、色はすべて赤になっていて、人が生きている気配も見られなかった。 「……本来であればこの場所も『復りの刻』でダメになってしまうところだった。けれど、それをサリー・クリプトンが何とかした。やっぱり、もともとASLに勤務していただけはあるよ。優秀だ。あんな錬金術師がリーダーで表舞台に出ないことは間違っているかもしれないというのに、それでも彼女は表舞台に出ようとしない。彼女曰く、リーダーはほかに居ないから、と言っていたか」 「サリー先生が、そんなことを……?」 「彼女はとても悔やんでいるそうだよ。かつて、学園を守れなかったことが。いや、それ以上に生徒を守ることが出来なかったことについて。……最初、僕と彼女が出会ったときは、怒り狂って僕に襲い掛かってきたのを覚えている。けれど、そんなことをしても無駄だと宥めた。僕も捨てられた。彼女も道が無かった。ならば、互いに手を組もうじゃないか、と。それから、僕と彼女、それとルチアが組んでこの組織が生まれた」  バルト・イルファは僕のほうを見て、話を続けた。 「その組織の名前はオーダー。シグナルとは一線を画した、『世界の再興』を望む組織のことだよ」 「むしろ、この世界において大量絶滅は珍しい話ではない。進化を促すことだってある」  バルト・イルファと僕は再び屋内へ戻ってきた。また古びた通路を歩きながら、バルト・イルファは言葉を紡ぎだす。 「この星の歴史はとても長い。その中でも大量絶滅と進化の繰り返しが歴史の蓄積になっていることは一目瞭然だ。生命……それは人間もそれ以外の動物も含まれる話だけれど、それらはすべて環境に適応して生きていかないといけない。生きていくために環境を変えていくのではない。変わっていく環境に適応していく必要があるわけだ。だけれど、人間は環境に適応出来なかった。正確に言えば、環境に適応出来る人間が少なかった。ただ、それだけに過ぎない」  淡々とした調子で、バルト・イルファは結果を述べた。 「つまり……人間が滅びてしまうのも、仕方ないことだと言いたいのか?」  僕は、バルト・イルファに問いかける。  バルト・イルファが返答をするのを待つことは無かった。  バルト・イルファにつかみかかり、僕は言葉を投げる。投げかける、のではない。それはデッドボールに近いものだったと思う。言葉のキャッチボールなんて最初から望んじゃいない。それよりも、僕は真実を知りたかった。 「だから、言っているだろう。……人間は滅びるべくして滅んだ。そして僕たちが生き残った。まあ、正確に言えば僕は人間じゃないよ。どちらかといえばメタモルフォーズに近い存在だ。それはそれとして……、一つの言葉を投げかけることにしよう。キャッチボールをするつもりが無いのならば、当然、こちらだってそうしても構わないだろう?」 「?」 「フル・ヤタクミ。君が世界を救いたいのか、愛した女性を助けたいのか、それとも元の世界に戻りたいのか……。君の理想はどうなっているだろうか、それを聞いておきたい。もとの世界に戻るのも構わない。愛した女性を助けるならば、僕は引き止めない。けれど、この世界を救うことが先ずは一番だと思うよ。もとの世界に戻ろうと考えたとしても、手段が見つからないのならば、何も出来ないことと同義なのだから」  ◇◇◇  僕は一先ず部屋に戻ってきた。  ベッドに横になり、これまでのことを整理する。  ……はっきり言って、直ぐに整理出来るほどの情報量ではないことは確かだけれど。  十年後の世界。復りの刻。世界を元に戻すにはオリジナルフォーズを再度封印するしかない。 「そして、その封印の術を知っているのが……、僕だけ、ということか」  僕は自分の頭を指さして、誰に聞こえるでもない言葉を呟いた。  いったい、僕はどうすればいいのだろうか。  バルト・イルファの言葉を思い返す。  バルト・イルファが提示した選択肢は次の三つだった。  一つ、この世界を救うこと。それはオリジナルフォーズを再度封印するということだった。非常にシンプルではあるけれど、問題はそれをほんとうに成功させることが出来るのか? という点について。世界は壊れてしまった。それが、オリジナルフォーズを封印させることだけで復興させることが、復りの刻という現象にピリオドを打つことが出来るのだろうか。  二つ、愛した女性を助けること。これはきっと……メアリーのことを言っているのだろう。バルト・イルファがなぜそのことについて知っているのかは定かでは無いが、メアリーとルーシーについては合流してまた話を聞く必要があるだろう。少なくとも、この十年間に何が起きたのか、ということについて。  そして――最後、元の世界に戻るという選択肢。  そもそもそれは可能なのだろうか。まだ手段が見つかっていない、バルト・イルファはそう言っていた。ならば、先ずはそれを探さないといけない。普通、ゲームならばクリアすれば元に戻ることが出来るだろうけれど、残念ながらこれは現実世界だから、それは不可能だ。ならば自分で探さないといけない。この世界に僕を連れてきた人物が、きっとこの世界に居るはずだ。居なかったとしても、目的があるならば僕を『監視』していてもおかしくない。そしてその目的を脅かされるようなことがあれば、必ず『修正』させるはずだ――そう推測した。  まあ、あくまでもそれは机上の空論に過ぎない。 「最後は一先ず放置するとして……、二つ目は確かに話だけでもきちんと聞いておきたい。メアリーとルーシー……レイナの様子も気になるな。十年間でみんな、どうしてあんなに変わってしまったのか」  ふと、自分の手を見つめる。  オリジナルフォーズを復活させる魔術は、ガラムドの書に記載されている。  そして、ガラムドの書の記憶(メモリー)は僕が保持している。  そこから導かれる結論は、あまりにも単純だった。 「……つまり、十年前にオリジナルフォーズを復活させたのは……、」 「その通り」  声が聞こえて、僕は勢いよく体を起こした。  そこに居たのは、ルチアだった。……確か、そんな名前だったと思う。 「ノックくらいしようかと思って、したはいいものの反応が一切無かったから入ったのだけれど、何か考え事をしているようだったから、気付くようにしたのだけれど。それにしても、いまさら十年前の主犯に気付くなんて、あなたはどれほど頭が悪いのかしら? 予言の勇者ならもう少し勘がよくてもいいものだと思うけれど」 「予言の勇者であることと、勘が良いことは関係ないだろ……。それより、ルチアだったな。教えてくれ。やはり十年前に復活させたのは」 「あら? メアリーやお兄ちゃんが説明していなかったの? ……だとすればとんでもない秘密主義ね。それとも、罪の意識をさせないつもりだったのかしら。罪の意識をさせたらどうなるか解らなかったから……とか。だとすればとんでもない甘やかしよね。笑っちゃう。あのお兄ちゃんが、そんなことをするなんて。アドバリー家の面汚しよね。ま、きっとお兄ちゃんも同じことを口にするのだろうけれど」  罪の意識。  確かにそれは間違っていないかもしれない。それは僕の認識で間違っている判断であるかと言われると微妙なところであるかもしれないけれど、しかし再確認することは必要だと思う。  僕に罪の意識をさせないために、敢えてメアリーやルーシーはオリジナルフォーズについて有耶無耶にしたということなのだろうか?  だとすればそれはそれで面倒な話だ。なぜ伝えてくれなかった。僕たちはずっと旅をしてきた――仲間じゃないか。 「それについて、解答を述べてあげましょうか。まあ、あくまでもそれは私の意見に過ぎないけれど」  ルチアはどうやら僕の心を読んでいるらしい。いずれにせよ、心を読まれるのは気持ちいいことではない。気持ち悪いことだということには変わりなかった。  それはそれとして、ルチアが教えてくれると言った。それは聞いておく必要があるだろう。バルト・イルファと僕が、ほんとうにオリジナルフォーズを封印するしか道が無いのか、ということについて、僕自身が吟味していかねばならない。 「メアリーとお兄ちゃんは徒党を組んで、予言の勇者に頼らない世界を作ろうとしている。そして、十年前の災害によって予言の勇者を悪い人間であると認識している人間は非常に多いから……、それを払拭しないといけないと思っているのかもしれないわね」 「払拭……か。確かにそうかもしれないな。広く知れ渡っているとするならば、僕を捕まえることは何も間違っていない。それに情報を取り出して、必要であるならば使い倒す。使えないと判断したらそこまで……、そういう感じなのだろうね」 「あら。充分、自分の立ち位置が理解できているじゃない」  ルチアは嘲笑する。  それは間違っていない。けれど、僕はあくまでも現在仕入れている情報から自分の立ち位置を吟味したうえで述べているだけに過ぎなかった。  だから、僕の考えは一般の考えとは違うだろう。  恐らく、メアリーやルーシーの考えとも違うはずだ。或いは今、僕たちは三種三様の考えを持っているのかもしれない。彼らの行動が誰の考えによるものなのかは定かでは無いが。 「……話を長々としてもつまらないでしょう。だから、ここは簡単に私が知っている情報をある程度提示しましょうか。それによってどうなってしまうかは、また、その情報を得てあなたがどう決断するかはあなたの判断に任せます。それはそれで、私は自分にメリットがあれば行動するだけに過ぎないのだから」 「決断、行動……ね。確かにそうかもしれないな」  実際問題、僕はずっと考えていた。  それはこの世界で再び目を覚ましてから、ではない。僕がずっとこの世界にやってきてから、考えていた。  僕がこの世界を助けることで、僕自身にメリットが生まれるのかということについて。  僕はゲーム屋に居て、気付けばこの世界にやってきていた。そのことについて僕は細かくメアリーたちに教えてはいない。それは僕がこの世界にやってきた意味を、僕自身が理解していないからだ。  予言の勇者だから。世界を救うためにお告げがあったから。召喚されたから。  そういうことじゃない。そんな、御託を聞きたいわけじゃない。  問題はたった一つ。  僕が呼ばれて、この世界を救ったことによって、何かメリットは存在するのかということについて。  確かにそれを考えるのは、人間として間違っているのかもしれない。世界の危機なのだから、個人のメリットなど考えず進むのが一番だ、と。けれど、それは僕の中では一つ禍根を残すこととなっていた。メアリーもルーシーも、そしてレイナも、僕の知らないこの世界の人間みんな、様々な目標をもって生きているはずだ。メアリーとルーシー、それに彼らが率いる軍隊? のような組織は恐らく『世界の再興』を望んでいるのだろう。そしてそれはサリー先生率いるこの組織だって変わらないはずだ。もし目標が一緒であるならば、同盟を組んで行動したほうが一番な気がしないでもないけれど、あまりそれは進言しないでおこう。きっと彼らも気付いていて、それに違和感を覚えているのだろう。どうして、彼らは徒党を組むことはしないのか、ということについて。  問題は僕の立ち位置だ。  僕がこのままこの組織に居ることをよく思わないのは、きっとメアリーたちだろう。メアリーは僕を助けるために行動してくれたのだと、ルーシーが教えてくれた。この十年間、僕をずっと探していて、なぜか宇宙に居たのだという。それはそれで気になるところではあるけれど、それよりも僕の立ち位置が重要だからあまり考えないでおく。  僕の立ち位置をどうするかによって、この世界の未来が決まる。  そう言っても過言ではないだろう。メアリーたちの組織に居ても、サリー先生の組織に居ても、恐らく世界を再興させるために行動するはずだ。それがどういうプロセスを踏むのか、によって若干異なるのかもしれないが。  それについて考えるにはあまりにも時間が足りない。サリー先生から提示されたタイムリミットはそう長い時間では無かったはずだ。その時間で僕がこの世界の現状を理解して、今この世界で暗躍している組織のパワーバランスを理解して、そして客観的に見てどの組織につくか考えるには、あまりにも時間が足りなすぎる。 「ここで、長々と考えていてもこの世界は何も変わらないわよ」  軈て、ずっと考え事をしている僕に飽き飽きしてきたのか、ルチアは溜息を吐いた。  それを見てなぜか僕は申し訳なくなった。目の前に居るのは、かつての敵だ。だからそのような気遣いなど本来であればする必要は無い。けれど、今の状況を考えると敵も味方も関係ないように思えた。  昨日の敵は今日の友、という古い言葉があったような気がするけれど、今まさにその状態であることを、身を持って実感していた。 「君はどうなんだ?」 「……は?」 「君の立ち位置から、僕はどう行動すべきかどうかアドバイスが欲しい。もちろん、あくまでも要望の一つではあるけれど」 「何を言いたいの。解っているのかしら。あなた、こんな状況でも他人に意見を求めるつもり? これは確かにあなただけの問題ではないかもしれないけれど、決断するのは、最終的に行動するのはあなたでしょう。だから、あなたが決めないで誰が決めるのよ。それに、アドバイスなんて不要と判断できる。これは誰も経験したことのないことなのだから、あなたが思ったほうに進めばいい。ただそれだけの話。私にとってみれば、別に面白ければどうだっていいわけなのだから」 「面白ければ、どうだっていい、か……。つまり、つまらない方向には進みたくない、と」 「当然でしょう?」  さも当たり前のように、ルチアは首を傾げ溜息を吐いた。  僕を嘲け笑うように、彼女は冷たい眼差しを僕に送っていた。 「とどのつまり、簡単な話。人生は一度きりなのだから、自分が楽しいように生きていったほうが結果としていい方向に進むというだけのこと。別に悪いことではないわよね。だって、好きに生きて何が悪いのよ?」  確かに、それは間違っていないかもしれない。  ただし、欲望はある程度セーブしておかないといけない。この世界は共同生活を送る世界だ。だから、そのための秩序(ルール)が存在している。その秩序を守らない限り、世界は、正確に言えばほかの人がそれを負担するか穴埋めする必要がある。  それをしたくないから、それをしてほしくないから、考えられたのが秩序だ。  そしてその秩序を破壊することは、巡り巡って自分の生活を脅かすことも考えられるとうことだ。まあ、そういう人間は大抵『今が良ければそれで良い』という人間ばかりなので、未来のことなどノータッチなのだろうけれど。 「でも、僕は……」 「元の世界に帰りたい?」  ルチアは僕が言いたかったことを先回りして言ってきた。  それについて直ぐに頷きたかったけれど――なぜか出来なかった。なぜそれが出来なかったのか、今の僕にはさっぱり理解できなかった。 「まあ、その気持ちは私には理解できないわ。だって『世界を移動する』ことなんて普通の人間には有り得ないことだもの。そもそも、あなたは予言の勇者としてこの世界にやってきた、異世界人。そしてあなたにとってこの世界もまた、異世界。あなたはいったい異世界で何をしようと、何を成し遂げようと考えているのかしら?」  異世界で、何をしようとしているのか?  それを僕に聞いたところで、何が始まるというのか。  そしてそれを、ルチアは理解しているのか。 「……それについてあなたに聞いたところで何が始まるか、と言われたところで私も何も解答出来ないのだけれど」  ルチアはゆっくりと歩き始め、やがて立ち止まる。  それを見ていた僕は思わず首を傾げていたが、 「とにかく、あなたがどういう決断をするにせよ、我々は我々の行動をとる。それが間違っているか、少なくとも私にとってはどうだっていい。ただ面白ければ……ね」  そしてルチアは扉から姿を消した。  いったい何がしたかったのか、その時の僕には理解できなかった。  ◇◇◇  その頃、飛空艇。  メアリーとルーシーが作戦会議をとっていた。  通常、作戦会議とはある程度の地位についている人間が集まって行われるものだ。しかしながら、この会議は少々特殊なものであって、ルーシーとメアリーの二人だけ、しかも会議開催中は部屋に誰も入れない、という徹底ぶりだった。 「シルフェの剣は、まだ力を解放していない……。メアリー、それってほんとうなのかい?」  ルーシーの言葉にこくり、と頷くメアリー。  メアリーの話はさらに続いた。 「そうよ。けれど、その情報は古い石碑に載っていただけだから、確証は掴めないけれど」 「……そうか。でも、それはかなり大きいな。もし相手もそれを知っているなら、フルにそれを持ち掛けるだろう。そしてそれを狙えばいい。……ちなみに場所は?」 「ガラムドを祀っている神殿があることは知っているでしょう? あそこに力が封印されているとのことよ。ガラムドの力を使えば……、きっとオリジナルフォーズを封印することも出来るでしょうね」  光の神殿。  それはメアリーが言った言葉だったが、ルーシーもまたその言葉は数か月前から知っていた。もっといえば、それがどこにあるのかということまで理解していた。  光の神殿はガラムドが育った場所に建てられた神殿だ。正確に言えば、ガラムドの墓を取り囲むように作られているそれは、神殿も含めて巨大な墓所のようになっている。  神殿にはガラムドの力が封印されていることが古い文献から判明し、その力を求めるだろうと予測したメアリーたちはそこへ向かおうと考えていたのだが――。 「でも、あそこに向かうことはできなかったはずだ。そうだろ、メアリー」  それを聞いたメアリーはゆっくりと頷いた。 「ええ、そうよ。あそこには、普通の人間は行くことができない。そもそも、もともとあの神殿は『ガラムド教』の本拠地があった場所。城下町という言い方は間違っているかもしれないけれど、神殿に神官たちガラムド教のトップが住んでいて、それを崇拝する人々が住む形となっていた。……おかげで今じゃ『復った』人だらけよ。まったく、そういうことを考えたことはできないでしょうけれど」  ガラムド教は今でこそ散り散りになってしまっているが、かつては光の神殿を中心として確固たる王国勢力を作り上げていた。王国ではない別の勢力として語られていて、町に入るとその国の法が適用されない。治外法権、という言い方が一番正しいかもしれない。  強固な勢力を作っていたガラムド教だったが、今では『復りの刻』になると多くの人型が存在する空間になり果ててしまった。 「だが、あの神殿に向かうには空からじゃ不可能だ。……向かうとしたら、どうにかして地上を通っていくしか方法がない。それは君だって知っているだろう?」  その言葉にメアリーは頷く。  ルーシーの言葉の通りだった。光の神殿は山の上に建てられている。しかしながら、その周辺は山脈が連なっていることと気流の関係上空から向かうことができなかった。向かうとしたら長い山道を歩く必要がある。  昼の時間は問題ないだろう。しかし、夕方になれば『復り』が始まる。そうなってしまっては絶望の境地といっても過言ではない。その場を乗り切るのは並大抵の実力を持った人間では不可能だろう。 「行くとしたら僕とメアリー、それにレイナも行けるだろう。はっきり言って、この船の戦闘員はそこまでレベルの高いものではない。それは君だって理解しているだろう?」 「当り前じゃない。私はこの船を束ねているのよ。それくらい理解していないで、何が船長よ」 「そう言ってもらえて何よりだ。そうでなければ、この船を任せた人たちに顔向けできないからな」 「それはあなたに関係ないでしょう? ……というのは、愚問だったね。とにかく、フルをどうにかしないといけない。それはあなたにだって解っていることだと思うけれど、私としては光の神殿に到達させてはならない。そう思っていた。だから、フルを……」 「ここで手放したくなかった、だろ?」  ルーシーの言葉を聞いて、俯いていたメアリーは顔を上げた。  ルーシーは目を細めて、どこか悲しそうな表情をしたまま、 「知っているよ。それくらい。僕たちはどれくらい一緒に過ごしてきたと思っているんだよ。どれくらい共にいて、どれくらいフルをどうやって、世界をどうやって復興させようか考えたか。それくらい、解って当然だろ」  ルーシーの言葉を聞いて、メアリーは何度も頷いた。 「ありがとう、ルーシー。やっぱりあなたと一緒にここまで来れてよかった」 「それくらい当たり前だ。フルを助けるため、そして何よりも世界を救うためだ。そのくらい、どうってことはないよ」  そうして、二人の会話は終了した。  ◇◇◇  メアリーの部屋を後にしたルーシーは一人考え事をしていた。  それは彼女のことについて。そしてフルのことについて。  彼はずっとメアリーを十年間支えてきた。フルが敵に捕まってしまい、オリジナルフォーズが復活してしまい、それでも――彼女はずっとフルのことしか見ていなかった。  もっといえば、十年間ずっと傍にいたルーシーのことなど気に留めていなかった。 「……メアリー、ずるいよ。確かにフルのことは大切だけれど……」  ルーシーは焦っていたのか、爪を噛む。  しかしながら、苛立ちを隠しきれないところで何かが始まるわけでもなかった。  だからといって、このままメアリーがフルにずっと一直線で進んでいくのも、ルーシーにとってみれば気分の良いものではなかった。  ならば、どうすればよいか。 『……辛いねえ』  声が聞こえた。  その声は、彼の頭の中に直接響く形だったが、しかしながら、彼はすぐにそれがどこかに居るのではないかと探し始める。周辺を見渡しても、当然ながら誰も出てこない。 「どこだ。誰だ、どこにいる」 『目の前。目の前にいるじゃないか』  そういわれて、ルーシーは正面を向く。  そこに立っていたのは――否、正確には浮いていたのは――一人の少女だった。  黒いワンピースに身を包んだ少女は、八重歯を見せつけるように笑みを浮かべていた。そして嘗め回すように、ルーシーの身体を睨み付けている。 「……お前は、いったい何者だ」  ルーシーの問いに、つまらなそうな表情を浮かべて、少女は言った。 『私は、「シリーズ」。かつて、世界をはじめから作り上げた神が、世界の次に作り上げた存在のうちの一つだよ。ま、それを考えると人間の先輩にあたるのかもしれない。今は分け合ってこんな姿をしていて、なおかつこの世界にやってきたわけだけれど……。どうだい、ルーシー・アドバリー。私と手を組まないか?』 「手を……組む、だと? そんな、得体のしれないお前とか?」  ルーシーが怪訝な表情と疑問を浮かべるのも当然だった。見たことのない、敵か味方かも解らない存在を簡単に信じるわけにもいかない。  先ずは、話をきっちり聞く必要がある――そう思って、ルーシーは少女を見つめていた。 『まあ、そんな緊張するなよ』  対して、少女は砕けた口調になって溜息を吐いた。  そしてルーシーの周りを一周くるりと回転すると、ゆっくりと床に着地した。 『私はただ、あなたに協力しようって言っているんだからさ。私と手を組めば、いろいろと楽だぞ。少なくとも、あなたが今思っていることはいずれ達成することが出来るぞ』  それを聞いたルーシーは耳を疑った。  なぜそのことを知っているのか。誰にも言っていないはずだったからだ。  シリーズと名乗った少女は指を振った。 『その表情は、なぜ解ったのか……って表情だね。まあ、それくらい簡単だよ。心を読めるからね。心を読めば何だって解るよ。今日のおかずのこととか、今一番考えていること。例えば、そう! ……思い人を奪われるかもしれない、っていう悩みもね』 「なぜ……それを……」 『だから言ったじゃないか。何度も言わせないでくれよ。それとも、記憶障害でも抱えているのかい?』  くるり、と回転して不敵な笑みを浮かべるシリーズ。 「なあ。聞いているのか? お前はなぜそれを知っているのか。……そして、僕に何をさせたいのか」 『解っているじゃないか。自分が何をすべきか、その意味を』  シリーズはルーシーに近づく。あと少しで顔と顔がくっつきそうなくらいに。  そして、囁くような声でシリーズはルーシーに言った。 『教えてやるよ。お前がすべてを手に入れる、その方法を』  ◇◇◇  僕はバルト・イルファとともに部屋にいた。  答えは簡単で、バルト・イルファが突然部屋に入ってきたからだ。そして僕はそれを断ることが出来なかった。 「……なあ、バルト・イルファ。どうして君は、一緒に行動するようになったんだ?」 「裏切られたからだよ」  絞り出すように、バルト・イルファは答えを言った。 「……裏切られた? いったい、誰に」 「君だって解っているだろう。僕にとって、誰に裏切られれば、僕が『裏切られた』と考えるか」  それは、解っていた。  僕の知っている限りで、バルト・イルファが仕えている存在はただ一人。 「……リュージュが、君を裏切ったというのか?」 「そうだよ。そうでなければ、誰が裏切った? 僕はずっとリュージュ様に仕えていたのだから。……裏切られ、途方に暮れていた僕を拾ったのは、サリーだったよ」 「サリー……先生が、なぜ君を拾った」  何だか尋問のようになってきたが、今さらここで踏みとどまるわけにもいかない。  先ずはできる限り情報を収集していかないと、何も始まらないのだから。  僕の質問に対して、バルト・イルファは少し考えるような素振りをして、首を数回横に振った。 「……なぜだろうね。それははっきりとしていないよ。いまだに理由もきいたことがない 。それは僕が怖いと思っているからかもしれないな。なぜ、サリーが僕を拾ったのか、ということについて。もしかしたら、君ならその真実に近づけるかもしれないけれど」 「僕ならそれに近づける、か……」  確かに、僕なら聞けることができるかもしれない。バルト・イルファをなぜ助けたのか、ということについて。  けれど、それを聞いたところでどうなる? 何が変わる? 何も変わらないように見える。  だが、バルト・イルファはどうやら自分が助け出された理由を知らずにずっとここまでやってきたらしい。怖くて、その理由を聞くこともできずに、ただ一人でそれを抱え込んできたというのだ。  何というか、それだけ聞いていれば可愛らしいように見えるが、でも、葛藤を生みだしていることは感じられる。  ならば、どうすればよいか。このまま問題を解決していけば、何か得られるかもしれない。  それに、サリー先生に出会って話をすることで、この世界に何が起きていて、今から何をしなければならないのか――その決断が出来るかもしれない。今はバラバラになってしまっている内容も、ある程度整理をつけられるかもしれない。  そう思って、僕は腰かけていたベッドから立ち上がった。 「……どこへ向かうつもりだい?」  バルト・イルファの言葉を聞いて、僕はしっかりと頷いた。 「ちょっと、話を聞きに。直談判、ではないけれど、先ずは今の状況をもう一度整理したい。そのためにも、話すべき人間が居る」 「サリーに会いに行くつもりか? 彼女は多忙を極めていて、会うことはできないぞ。それに、彼女の部屋へ向かうには幾つかのパスコードを居住区と繋がる唯一の扉に打ち込まないといけない。でもそのパスコードを知っているのはルチアだけだ。僕は知らないよ、一切それについては。きっと、もともとは敵だったから仕方ないかもしれないが、警戒されているのだろうね」  ならば都合がいい。もう一人話を聞いておきたい人物がいた。ルチアにもある程度この世界の謎について知っている情報を引き出しておきたかった。  だから、僕は問題ないと一言だけ告げて、部屋の出口、その扉を開けるのだった。  そして僕はバルト・イルファに目をくれることもなく、部屋を後にした。  ◇◇◇  一人残った部屋で、バルト・イルファは溜息を吐いた。 「いつまでも、思い通りにはいかないね。フル・ヤタクミ。君がどう動こうったって、世界の仕組みは変えられない。それとも君は望んで、自分の身体を滅ぼしに向かおうとしているのか。だとすれば、頭の悪い話だ。そんなこと、望んでする必要はないのに」  立ち上がり、伸びをする。そしてバルト・イルファは小さく舌打ちをしたのち、部屋を後にした。 「フル・ヤタクミ。君はどこまで愚かな存在なんだ?」  吐き捨てるように、その言葉を口にして。  ◇◇◇  サリー先生に話を聞かなきゃ。  僕はそう思って、ずっと走っていた。  サリー先生に会うためには、ルチアにパスコードを聞く必要がある。バルト・イルファがそう教えてくれた。彼の情報を無駄にしてはならないだろうし、今の状況では最重要な情報だろう。バルト・イルファが何か言いたげな表情を浮かべていたが、今はそんなことどうだっていい。一先ず、もう一度サリー先生に会ってきちんと話をしないと何も始まらない。  ルチアの部屋は外壁に面した掘っ立て小屋だった。もっと立派な部屋を用意してもらうことも可能だと思うのだが、どうしてこのような場所に部屋を作っているのだろう。  そんなことを思いながら、扉の前に立ち、僕は扉をノックする。  反応はなかった。まあ、当然かもしれない。逆にあのルチアに人間然とした態度をされたらそれはそれで驚きだし。  と、本人を蔑むのはここまでにしておいて、僕はそれを了承と受け取って、部屋の中へ入った。  部屋は非常に質素な作りだった。ちゃぶ台のようなテーブルが一つ、クッションが二つ、それにシングルベッド。衣服は適当なところにかけられていてそのまま放置されている。どうやら生活能力はそこまで高いものではないようだった。それを見て少しだけ安心した自分がいるのは内緒だ。  そして、ルチアはシングルベッドに横たわっていた。どうやら眠っていたようで、白いワンピースを着ていた。パジャマか部屋着のいずれかだろうか、普段の印象とは大きく違うので少しドキリとしてしまうが、それはいま感じる問題じゃない。  さて、当の本人は僕の入室にも気にすることなく、目を開けてからこちらを一瞥して起き上がろうともしなかった。 「……用事があったからここに来たわけなのだけれど、起き上がろうとする気もないわけか?」  しびれを切らした僕は、そう口にする。  対してルチアは至極面倒そうな表情を浮かべながら、ゆっくりと起き上がる。  よく見れば髪はぼさぼさになっている。さっき話をしてそんな時間も経っていないことから、あのあとすぐに眠ったということなのだろうか。だとすればあまりにも不定期な生活リズムに見えるが。 「何よ。別に私が起き上がろうとは思わないのだから、いいじゃない。……ところで、何の用かしら?」 「サリー先生に話をしたい。パスコードを教えてくれないか?」 「また単刀直入に……。どうせ、バルト・イルファが悪知恵を仕込んだのよね。まったく、あのキメラは、何を言い出すか解ったものじゃない。サリーもどうしてそんなことをしたのか、まったくもって理解できないけれど、まあ、それはいま考えるべき話では無いわね」  ふわあ、と欠伸を一つして立ち上がるルチア。彼女はそのままゆっくりとクッションの上に座る。  それを僕は、ずっと立ったまま見つめていたわけだけれど、 「何をしているのかしら。とにかく、座りなさいな。話をしているのに、立ち話というのも難儀なことではなくて」  そう言われてしまっては、受け入れるしかない。そう思って僕はルチアの向かいに置かれているクッションの上に安座で座った。  ルチアはベッドの脇に置かれていた白い箱の扉を開けた。中から茶色の液体が並々に満たされたデキャンダとコップを二つ取り出してそれをテーブルの上に置く。持っていた部分が濡れていなかった――裏を返せばそれ以外の部分が濡れていたところを見ると、どうやらあの箱は冷蔵庫の類のようだった。  デキャンダを持ち、コップに液体を注いでいく。それを八分目くらいまで注いだ段階で終えると、それを僕のほうに差し出した。  最初はそれが何の液体なのかさっぱり理解できず、口をつけずにいたのだが、 「……それはお茶だよ。別に毒なんぞ入っちゃいない。まあ、苦みがあるからそこは人を選ぶポイントになるかもしれないが」  溜息を吐いたのち、そう言って彼女の前に置かれていたコップにも同じようにお茶を注いでいった。  お茶か。それなら問題ないだろうか。そう思って僕はコップを手に持つと、それを口に流し込んだ。  味は想像よりもすっきりしていて、とても美味しかった。苦みがあるとは言っていたが、それもアクセントの一つと考えれば申し分ない。偉そうに聞こえる話かもしれないが、それは紛れもない事実だった。  それをルチアも見ていたようで、 「……へえ、それを初見で苦いと思わなかったのは珍しい。別にあんた以外にも色んな人がいたけれど、それでも全員が全員これを美味しいとは思っていなかった。ま、私はこれが好きだからこのお茶を飲んでいるのだけれど」  そう言ってルチアはお茶を飲みほした。 「これは、何のお茶なんだ?」 「エノシアスタ第一ビル……と言っても解らないか。ここから連絡通路を通して行けることのできる唯一の場所だよ。そこに人工農園がある。そこで育てている野菜の一つに、煮出しすることで味が出てくるものが判明してね。それを使っている。名前は忘れてしまったが、健康効果も期待できるとのもっぱらの噂だ」 「噂、ね……」  女性は噂を気にする、と聞いたことがある。やっぱりこの世界でも女性の感性は変わらないんだな、って思った。はっきり言って、今の状態ではまったく関係のないことなのだけれど。  僕が目を細めて――疑っていると思われたのか――頷いたのか、ルチアは首を傾げて、 「おい、お前。まさか信じていないのか。というか、何をしにここにやってきた。まさか、このお茶を飲みに来たのではあるまいな。私と談笑に来たわけでもなさそうだが……」  その通りだ。  ルチアとは話をしないといけないことがいっぱいある。 「……実は、パスコードを教えてほしい。サリー先生の居る部屋へと向かうための」 「それを聞いて、あっさり私が教えるとでも思っているのか?」  それは当然だ。  それにそう簡単にパスコードが手に入るとは思っていない。  だからパスコードを手に入れるまでは、僕の実力だ。交渉して、手に入れないといけない。 「……パスコードが手に入らないから、もう何もできないという感じかしら。確かに、パスコードを手に入れることで何が変わるか解らないけれど、いずれにせよ、何もしないというのであれば帰るがいい。そしてそのまま受け入れることね、あなたの運命に」  そうして、デキャンタからお茶を注ぐルチア。  ルチアにただ言われただけで、このまま出ていくわけにもいかない。  やはりここは、ルチアを言い負かせてパスコードを手に入れないといけないだろう。 「……ルチア。僕はどうしてもさりー先生と話をしなければならない。理由は解るだろう? この世界のことについてだ。そして、僕が眠っていた十年もの間、何が起きていたのか僕が理解する必要があるからだ。そのためにも、僕は話をしなければならない。サリー先生から、すべてを聞かないといけない」 「すべてを聞く、ですか。それはサリーではないといけないのですか。バルト・イルファに、私もいます。書物で情報を仕入れたいなら図書室の場所をお教えしましょう。なぜわざわざサリーに会いに行く必要があるのですか」 「それは……」  はっきりと言えなかった。  ちゃんとした理由が無かったから、ではない。理由は確かにあった。サリー先生ならば信頼することができるから、サリー先生の話を聞けば落ち着くことが出来るから。  少なくともバルト・イルファとルチアはかつて敵だった。だから、彼ら彼女たちから話を聞いても信用する証拠としては乏しい。  書物を見たとしても、この有様では十年間の歴史を記した本があるかどうか怪しい。それに、書物は殆ど主観で描かれている。それを考えると、客観的な見方をした本を読んでおきたかった。しかし、それは無いと考えたほうがいい。そもそも、図書室があることも知らなかったし、ルチアが連れていく場所もほんとうに信頼足りえるものかどうかも解ったものではない。  それを総合的に評価した結果、サリー先生と話をしたほうが僕の中で事実を噛み砕くことが出来る、或いは話を一番理解する上での近道という判断に至った。  しかし、それがルチアと話し合ううえで彼女を論破するに値する発言であるかといわれると微妙なところだった。もしかしたら、だから、それがどうかしたか、と追及されてしまう可能性がある。そうなってしまったらそこまでだ。僕はサリー先生に会う手段を失うに等しい。  ならば、どうすればいいか。  その代案を考えていたのだが――それがなかなか浮かんでこなかった。  そして僕はそのまま、ルチアとの話し合いへと突入していくのだった。  ◇◇◇  メアリーたちが乗る船には書庫がある。そこにはこの世界の歴史や文化を保存するために、できる限り残しておきたいとメアリーが考えたためのものだった。もちろんすべてが保存されているわけではなく、一部取りこぼしがある。それは別の安全圏に置かれているから問題ない、とされているのがメアリーの見解だ。  そしてこの書庫は立ち入り禁止にはなっていないが、誰もやってくることはない。  こんな時代で、進んで本を読もうという人間なんてあまり居ないのだった。  しかし、今のルーシーにはそれが好都合だった。自分の部屋ならば直ぐに誰かが入ってくる可能性もあり得る。だからここならば滅多に人が入ってこない。シリーズとの会話も出来るだろう。そう考えたのだった。  書庫の奥底にある椅子に腰かけ、漸くルーシーは溜息を吐いた。 『……漸く話すことの出来そうなポイントにやって来られたな?』  シリーズの問いにゆっくりと頷くルーシー。  そしてルーシーはゆっくりと話を始めた。 「先ずは、何から話せばいい? シリーズ」 『とにかく、先ずは呼び名から行こうか、ルーシー。シリーズという呼び名は言いにくいだろう? シリーズは色々と居るからね、私以外にも役回りが違う存在が何種類も。彼らと出会うことになるかどうかは定かではないけれど。彼らも忙しいからね。……さて、ルーシー、改めて私の名前を教えてあげよう。さっき私はシリーズといったけれど、それは私を含めた種族全般の呼称にすぎない。正確には、私は「ハンター」と呼ばれる。覚えておくがいい。そして、今後はそう呼ぶといいよ』 「……偉く高圧的な態度だな。僕と君にどのようなメリットがあるのか未だに理解できないが」 『言ったじゃないか。お前は惚れた女を自分のものにすることが出来る。私は……そうだね。面白いことが好きなんだよ。ただ、それだけだ。私にとって面白い事が起きればそれで構わない。何せ、この世界をずっと見ていくのは非常につまらない話だからね。面白い事といえばつい十年前に起きたあれか。人間たちには申し訳ないけれど、あの大スペクタクルはとてもじゃないけれど、またみられるものではないね』  ハンターのメリット。それはルーシーが聞いてみればよく理解し難いものであったが、そうであったとしても、やはり簡単に信じるものではない。  そう思っていたからこそ、ハンターはさらにルーシーに話を続ける。 『あなたが何を考えているのかさっぱり解らない。というのは嘘になる。さっきも言った通り、私はあなたの考えていることが手を取るように解っている、ということ。だとすれば、あなたが何を言ったところであなたの本心が解る、ということよ』 「……長々と語っているが、要は、隠し事は不要というスタンスだろう?」  溜息を吐いたのち、ルーシーはハンターに目線を向ける。  ハンターに対する不信感は未だに募っていた。だからこそいろいろと話さないでおこう。自分の手の内は隠しておこうというスタンスで何とかハンターとの会話を終えていこうと考えていた。  しかしながら、ハンターはそれに先手を打つ形で『何でも解る』と言った。 「とにかく、話を続けよう。君は楽しいことを知りたい。僕は……彼女の向ける目線が欲しい。そういうことでよかったか?」 『お前が何を望んでいるか、私から言及するつもりはないがね。まあ、それであっているというのならあっているのではないかな』  遊んでいるように、楽しんでいるかのように、弄んでいるかのように。 「……いずれにせよ、話をしていく必要はあるだろう。メリットと、デメリットの話し合いをする必要があるだろうよ」  ルーシーはまだその意味に気付いていなかった。  目の前に居るハンターとやらの実力は未知数だ。対してルーシーは十年間組織の参謀として頭脳担当の立ち回りをしてきた。メアリーはリーダーであるとするならば、ルーシーは影のリーダーという認識で間違いではないだろう。それに影のリーダーであるという認識はほかのメンバーもそう認識していた。  メアリーは表向きにはリーダーとなっているが、実際指示を送るのはメアリーではなくルーシーだ。正確に言えばメアリーとルーシーが話し合って決めた内容をメアリーが代読する形となる。結果として、メアリーが指示をしていると表向きには見えているが、実際にはメアリーはルーシーの操り人形と化している、という認識が多い。  そしてルーシーもそれを自負していた。メアリーは知識については豊富に持っているが、リーダーになる器は無かった。そして、メアリーもそれを理解していた。理解していたからこそ、もっとも信頼できるルーシーにその地位を委譲していた。  ならばメアリーではなくルーシーをリーダーに置くという考えもあるが、それはメアリーの血統が問題となっている。メアリーは祈祷師を母親に持つ、『神の一族』と呼ばれる存在だ。神の一族は例外なく王家、祈祷師、それ以外であっても貴族や豪族など、ある程度この世界のパワーバランスに影響をもたらしている。それを考えると、メアリーがリーダーになるのは至極もっともなことだった。  しかしながら戦術を考えるのはメアリーであったとしても、求心力を掴むため、正確に言えば人を上手く使うのはルーシーのほうが得意だった。  だからこそ、ルーシーの努力はもう少し認められてもいいはずなのだが……。 『しかしながら、あなたの努力は認められることは無かった。理由は単純明快、メアリーの統率能力が秀でているとこの組織の人たちは思っているから。……そうよね?』  それにこたえることはできなかった。  或いは、それをルーシーは自覚していたからかもしれない。自覚していたからこそ、いざそれを言われると痛いところを突かれた気分になる。だから、何も言えない。  それを知っていたからこそ、さらにハンターは話を続けていく。ルーシーへの言葉の猛攻を続けていく。 『……結論を先延ばしにする必要は、私の中でも無いわけだよ。それくらい理解しているだろう? 結論を先延ばしにしたところでメリットは何もない。今は、スピードが重視される時代だよ。そうは思わないか?』 「つまり、結論を急げ、ということか」  その通り、と言わんばかりにウインクを一つするハンター。 『結論を急ぎ過ぎるのも悪い。だからといって慎重に行き過ぎるのも駄目だ。ちょうどいい感じで行こうじゃないか。別に私はせかしているつもりはない。けれど、このままでいいのかなー? このまま進んでいけば、確実にあなたの思い人はそいつと接触するぞ。そして、あなたは蚊帳の外。どうする? しいて言えばこれが最後のチャンスだ。しかも、何も出来ないあんたに対して力まで与えてやろうというんだ。これ以上の好機があると思っているのか?』  ルーシーは考えた。自分はどう行動するべきかを。しかし、このままでは紛れもなくメアリーはフルを追い求めることだろう。十年間、彼女がフルのことを考えなかった時はやってこなかった。それは即ち、いまさら彼が何か言ったところで彼女の心は変わらないことを意味していた。  それなら、どうすればいい? メアリーに見てもらうには? メアリーに、自分の気持ちを本気で見てもらうには、どうすればいいのか。  目の前に居るハンターはにたりと笑みを浮かべていた。  そして、ルーシーは一つの決断を下し――大きく頷いた。 『決めたようだな。どうするのか。自分がどういう道を歩むのが正解か、を』  それを聞いたルーシーは、再び頷いたのち、 「ああ。よろしく頼むよ、ハンター」  そしてハンターが差し伸べた手を、強く握った。  ◇◇◇  ルチアと僕の話し合いは佳境を迎えていた。  とは言っても、実際のところは非常に押されていた。『サリー先生に会って話がしたい』一心で話をしていた僕に対して、そんなことをしなくてもいいと押し切るルチア。その会話は一見平行線に終わってしまうようにも見えるが、案外そうでもない。  結論から言えば、ルチアの完勝と言っても過言ではない状況だった。  僕はサリー先生に会いたい。ルチアは別にサリー先生に会わせなくても僕の目的は達成できると考えている。それははっきり言って平行線になるのは当たり前だ。まあ、それを彼女がそう言ったのかと言われると微妙なところであって、実際は彼女の発言の所々から予想しただけに過ぎないけれど。 「……結論から言わせてもらうと、やっぱりあなたをサリーと話させるわけにはいかない。だって話す必要が無いもの。図書室もある。ほかの人たちもこの場所に居る。それでいいじゃない。別にサリーと話す必要性は考えられない。……これが私の結論よ。それとも、これ以上言い返すことが出来るかしら?」 「……、」  何も言い返せなかった。  悔しかった。何も言い返すことが出来ない、自分がただ悔しかった。どうすればこの口論で論破することが出来るのか。戦いは、少ない経験ではあるものの、何とか乗り越えることが出来るだろう。けれど、言葉での戦い――口論になれば話はまた別だ。頭が良くなければ言い返すことなんて出来ない。そして、今のルチアに言い返すほど、僕の頭は良くない。お世辞にも頭が良いとは言えない実力。それが、学校時代の僕の学力だったのだから。 「……少しは筋があると思ったけれど、予言の勇者もその程度なのね。だとすれば、仕方ない。さっさとここを出ていきなさい。そして、もしあなたがこの世界のことを知りたいのならば、図書室なり別の部屋を教えてあげる。そこに向かえば、きっとあなたの知りたい情報を得ることは出来るでしょう。だから、だからこそ、あなたはそこで知識を仕入れる必要があるのだから」  そう言って。  ルチアは完全勝利という気持ちを込めた嘲笑で僕を送り届ける。  その時だった。  ノックもせずに、誰かが入ってきた。 「……誰かしら?」 「ごめんね。話し合いをしている声が聞こえてしまって、盗み聞きするつもりは無かったのだけれど、それでも、話し合いに参加しなくてはならないだろうと、そう思ったのよ。だから、取り敢えず私も話に混ぜてもらえないかな?」  そう言ったのは、僕もよく知る人だった。 「サリー……。あなたどうしてここに居るの?」 「別に、私がここに居るのは勝手でしょう? いいや、別にここだけじゃない。私はこの組織のトップ。管轄している存在になる。だから、この組織の管轄にある、この建造物のどこに居ようと私の勝手。そうではないかしら?」  それを聞いたルチアは首を横に振り、大きく溜息を吐いた。  あきらめがついたかのように、ルチアはサリー先生を見つめる。 「サリー……。あなた、もしかして最初からこの展開を望んでいて、わざと私と予言の勇者の会話を見ていたわね?」 「いいえ。別にそのつもりは無かったわよ。ただ、目の前を通ったらあなたとヤタクミの口論が聞こえただけ。そんでもって声を聴いてみると……、私に対する内容だったから、ただ出るタイミングを窺っていた。ただ、それだけの話」 「……どこまでほんとうなのやら。それで? サリー、あなたはどこで予言の勇者との話をつけるつもり? ここを貸すつもりはないわよ」 「それでいいよ。別にここで話し合いを……正確に言えばヤタクミへの情報提供をするつもりはない。私は私の部屋を用意しているし、別に歩いている道中でも話すことは出来る。だからこそ……、今私はヤタクミに許可を求めに来た、というわけ」  そう言ってサリー先生は僕のほうを向いた。  立っているサリー先生は僕を見下ろす形になっている。それは、今の僕とサリー先生の関係を示しているようにも見えた。  上司と部下、ではない。きっとこの関係を一番近く表しているのは、こんな関係だろう。  所有者と所有物。  所有物は所有者に対して畏敬の念を持っていなければならない。対して、所有者は所有物をいかなる方法をもって使役しても構わない。なぜなら『物』として扱っているのだから。そこに人権など存在するわけがない。  サリー先生がそんなことをするとは到底考えていないけれど――、その冷たい眼差しはどこか物を見るような眼だった。僕を人間として見ていないようにも見えた。侮蔑も含めたような、そんな目つきだった。  そして、サリー先生はゆっくりと告げた。 「ヤタクミ。あなたは真実が知りたいですか。たとえ、この世界がどうなろうとも、いや、正確に言えば、この世界を本気で救おうと考えているというのならば……、私についてきなさい。真実を教えてあげましょう。そして、あなたがなすべき道を私が指し示してあげる。それは、きっと私があなたにしてあげなければいけない施しのような気がするから」  サリー先生は右手を僕に差し伸べた。  それは救いの手に見えた。それは地獄に伸びる一本のクモの糸にも見えた。  そして、それに縋らなければ、僕は二度とこの状況から脱出できない。正確に言えば、『何も知らない』状況というのは少なくとも脱却することが出来なくなる。  それが僕は怖かった。周りはすべて知っているのに自分は何も知らない。まるで操り人形か何かのような感じがして、とても怖かった。  だから、僕はその右手を――しっかりと握った。  その右手を握ることで、何か救われるような、そんな気がしたから。  ◇◇◇  そして。  第三勢力たる存在は、水晶玉を通してすべての事象を見つめていた。  正確に言えば、見通していた、というほうが正しいかもしれない。いずれにせよ、彼女は世界をここまでにした張本人であり、それでいてそれを悪いと思っていない。むしろ正しいことと思っているのだから。  巫女装束のような恰好に身をまとった女性は呟く。 「……これでそれぞれの動きが、ある程度ひと段落しましたか」  隣に立っていた白いワンピースの少女は告げる。 「でも、これでいいのですか。リュージュ様。シリーズという存在に先手を取らせるなんて。あなたらしくない。予言の勇者を倒すためには、あなたとシリーズが組むことが良かったのでは?」 「それでは、ここまでうまく進めることは出来なかったでしょう。シリーズにはシリーズなりの矜持がある。そして、私にも私なりの矜持が……ね。それを考えると、きっとその矜持はぶつかり合うでしょう。それで支障が生まれるのは大変よろしくない。ただでさえ、今の世界は不安定だというのに」  溜息を吐いたのち、女性は水晶玉から目線を移す。  暗い部屋だった。壁も床もすべてが黒で塗り潰されている。それでいて、人物は黒に引き立てられているかのように、不自然に浮かび上がっていた。  水晶玉を持つ女性は笑みを浮かべたまま、顔を上げる。 「……世界は不安定。確かにその通りです。そして、不安定な状態であっても、予言の勇者は世界をかき回すと思いますよ。予言の勇者はまだ何かをしでかす可能性がある。いや、正確に言えばしでかされる、そう仕向けられるのでしょうから。まったく、運命という可能性は酷いものですね。時に人を滅ぼすのですから。そして、滅ぼすときの一番の言い訳にもなりますし」 「確かに、一理ある」  女性は笑みを浮かべると、立ち上がり、少女を避けて部屋の出口へと向かっていく。 「……リュージュ様、どちらへ?」 「未だ物語は序盤だ。始まることは、そう簡単にやってこないだろう。だから、私は少しの間眠らせてもらうよ。なに、もしロマも気になるようであれば水晶玉を置いておくが」 「いえ、結構です。それほど物語が進むことも無いでしょう。それは私も同意ですから。それより、リュージュ様はゆっくりお休みください。リュージュ様の計画は十年経過して、漸くここまで来たのですから。先ずはお休みしていただいて、しっかり力を蓄えてから行動に移しても問題は有りません。そうでしょう?」 「……そう言うならば、水晶玉は私が持ち帰ろう。では、私は少し眠る。たぶん勝手に起きてくると思うから、緊急時以外は起こさないこと。そして、私の部屋にも人を立ち入らせないこと」 「かしこまりました」  ロマと呼ばれた少女は頷いて、頭を下げる。  リュージュはそのまま彼女の礼を見て、奥にある扉を開けてその中――彼女の部屋へと入っていった。  一人残されたロマは考え事をしていた。  それは彼女の兄であるバルト・イルファについてだった。バルト・イルファは十年前、予言の勇者の脱出に加担したとしてリュージュから排除命令が下されていた。  排除命令。それは事実上の組織からの抹消処分だった。  それは彼女にとっても悲しい決断だった。彼女は兄、バルト・イルファのことが好きだった。それは、好意を持っているという意味だった。愛している、という意味だった。  バルト・イルファとは兄妹の関係にあるとはいえ、血は繋がっていない。  血は繋がっていないからこそ、ロマはバルト・イルファ――つまり兄のことも恋愛対象においても問題ないだろう、とずっと考えていた。  バルト・イルファのことを当然尊敬しているし、しかしながら、それと同時に恋愛感情もはぐくんでいた。もちろん一方的だった。バルト・イルファがそんなことを知っているはずも無かった。仮にそういう一端を垣間見るときがあったとしても、それは冗談だろうとしか受け取っていなかった。  だが、彼女にとってみればそれは冗談などで片づけられる問題では無かった。 「……お兄様、どうしてこうなってしまったの……」  妹は、兄に恋をしていた。  だが、兄は予言の勇者の脱出に加担して、そのまま姿を消してしまった。  ああ、妬ましい。  妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。妬ましい。  自分の愛する兄を、ここまで骨抜きにしてしまった予言の勇者が妬ましい。  だから、許せなかった。  ロマもロマで、予言の勇者に因縁があるということだ。 「お兄様を、ああ狂わせたのは、予言の勇者。あなたが悪いのですよ……!」  ロマは昂る感情を何とか押さえつけながら、ちょうど窓から出てきた月を睨みつけた。  月はそんなこともつゆ知らず、今日もふわりと空に浮かんでいるのだった。