海に打ち上げられて、少し休憩したのち、僕たちは探索を開始した。  まずはここがどこであるか、ということについて。 「……駄目ね。地図を見ても、ここがどこだか見当もつかない。かといって歩いていては不味いことになりそうね。有耶無耶に歩いても解決するとは到底思えない」  そう言ってメアリーは砂浜の向こうを見つめた。  砂浜の向こうは鬱蒼と生い茂った森が広がっており、そう簡単に進めるものではない。 「……ここを通れば、どこへ向かうのかしら?」 「正直な話、あまり無作為にいかないほうがいいと思うよ。……でも、だからといって、動かないわけにもいかない。いったいどうすればいいものか……」  ルーシーは手を組んで考えた。  けれど、それよりも早く――何かがやってくる音が聞こえた。 「静かに。何か聞こえる」  メアリーの言葉を聞いて、僕は耳をひそめる。  何かがこちらに近づいてくる。  かっぽ、かっぽとコップを鳴らしているようなそんな音。  けれど、それは正確に言えば――。 「やあやあ、やっと森から出ることが出来た。まったく、この馬はかなり面倒な馬であることだ……」  森から出てきたのは、馬車だった。  それもそれなりに立派な。 「……まさか馬車が森の中から出てくるなんて」 「もしや……君たちはラドーム学院からやってきた子供たちかい?」  それを聞いて、僕たちは目を丸くした。どうしてそんなことが解るのか、はっきりと言えなかったからだ。  いや、それ以上に。  その人は、信じられる人間なのか? 突然やってきて、僕たちがどこからやってきたのかが解っている。そんな人間をすぐに信じられるだろうか? はっきり言って、そんなこと不可能だ。 「……乗りなされ。扉の鍵は開いている。それに、中には誰も載っていない」 「……ほんとうですか?」 「安心しろ。取って食うわけではないし、そもそも私はラドームの古い友人だ」  ラドーム……それってつまり、校長先生の? 「だったら、信頼できるかも?」 「そうかもしれないけれど……」  メアリーを筆頭に、ひそひそ声で話し出した。そうしている理由は単純明快。聞こえないようにしているためだ。聞こえてしまえば、すべてが無駄になってしまうのだから。  それを察したのか、馬車の老人は頷く。 「まあ、疑うことも仕方ないだろう。疑うこともまた、意識としては大事なことだからな。けれど、人を信じることも時に大事だぞ」 「……どうする? フル」  ここでルーシーが僕に話題を振った。何で、ここで話題を振るんだよ、もっと考えてから僕に手渡してくれよ、もっと何かあっただろ。  ……そんなことを考えても無駄だと思った僕は、あきらめた。小さく溜息を吐いて、踏ん切りをつけるしかなかった。 「そうだね。ここでずっと話をしていても無駄だ。だったら、従うしかない。遠慮なく、馬車に乗せてもらうことにしよう。正直、どこに向かうのか解らないけれど」 「そう焦ることは無いぞ、若人。私がやってきた場所は、妖精の住む村として有名な場所だよ。名前はエルファスという。そこへ向かえば、きっと君たちの身体も休まるだろう」  結局。  僕たちは馬車に乗っていた。  馬車に揺られて、森の中を進む。木の枝が入ってくることがあるのではないか、ってことを考えていたのだけれど、はっきり言ってそれは杞憂だった。そんなことを考えても無駄だった、ということだ。 「馬車に乗ることが出来るとは、思わなかったよ」 「この世界で馬車を持っている人間ってとても少ないからね……。私たちも初めてだよ」  僕の言葉に答えたのはメアリーだった。  メアリーの言葉を聞いて頷く。そうなのか、この世界で馬車を持っている人間の数はそう多くない、と。正直もっと居るのではないか、と思ったけれど、どうやらまた別の考えらしい。 「それにしても、馬車に揺られるのって、とても気持ちいいのね……」  メアリーは座っていながら、伸びをした。  確かにメアリーの表情はどこか気持ちよさそうだし、僕も気持ちよかった。こんなに馬車の揺られが気持ちいいものだとは知らなかったからだ。 「……エルファスまではどれくらいですか?」 「なあに、あと一時間は軽くかかるだろう。それまではゆっくりとしていても何ら問題は無い。なんなら眠っていても構わないよ。着いたら起こしてあげよう」  眠り。  そう聞くと、途端に眠くなってくる。  なぜだろう。まあ、解らないことなのだろうけれど。長い間海水に浸かっていたから、体力が知らないうちに消費されていたのかもしれない。だったらあの時の気絶しているときに少しでも回復していればよかったのだけれど、人間というのは少々面倒な生き物だ。  そして、気付けば僕たちは夢の世界へと旅立っていった――。  ◇◇◇  次に僕が覚えているのは、老人がカーテンを開けたタイミングでのことだった。 「そろそろ、エルファスの市内へと入っていくぞ」  それを聞いて僕は目を開ける。どうやら随分と長い間眠っていたように見えるけれど、ようやく着いたという言葉を信じるとまだ一時間程度しか眠れていないのだろう。何というか、すごく長い間眠っていたように見えるけれど、きっとそれは違うのだろう。  メアリー、ルーシーも目を覚まして大きな欠伸をした。 「まさかこんなに眠りやすい環境とはね……。馬車、恐るべし……」  どうやらメアリーは馬車に屈してしまったらしい。まあ、言いたいことは解る。そして仕方ないと思うことも事実だ。  市内へと入る大きな門――それを馬車の中から見て、とても幻想的な雰囲気が感じられた。石煉瓦を積み上げたことでできている壁よりも大きな巨木が見えているけれど、きっとあれが妖精の住む樹なのだろうか?  市内へと入っていくと、その雰囲気はがらりと変わっていく。  石煉瓦でできた質素なつくりの家、それに広い道を歩いていく人々。そしてその光景に映りこんでいる女性は、どこか露出度が高いように見える。一例をあげれば背中をぱっくりと開けたドレスを着ていることだろうか。どうしてあんな恰好を平気でできるのか、解ったものではないけれど。 「ここは西門の前なので、娼館が多いのじゃよ」  そう言って老人は笑う。  娼館――ねえ。ゲームの中でしか聞かないと思っていたよ、そんな言葉。 「なあ、娼館って何だ、フル?」  ルーシーはその言葉の意味を理解していないらしく、無垢にも僕に訊ねる。  いや、言おうと思えばすぐに教えることは出来るけれど――お前の隣には少女が居るんだぞ? しかもお前と同じ年頃の、だ。まあ、その意味は僕にもそのまま通るのだけれど。  大きな木――町の中心にあるそれの下には、一つの家があった。ほかの家と同じく石煉瓦で形成されているのだが、その幻想的な雰囲気に、思わず目を奪われた。 「ここがこの町の長老の家だよ」  馬車を止めて、老人はそう言った。 「……行こう、フル」  そう言ったのはメアリーだった。  確かに何も知らないでやってきた場所において、そのまま従っていくのはどうかと思う。緊張感もないし、皆を信じてもいつか裏切られる可能性を常に考慮しておく必要がある。  しかしながら、メアリーの言葉を聞いて――僕は小さく頷いた。 「そうだね。先ずは向かってみないと何も始まらない。きっとこの町の人はいい人だと思うから」  そう言ったのは、正直嘘だった。  ほんとうは不安ばかりだった。けれど、彼女の言葉に押されて、僕はそういうしかなかった。  ◇◇◇ 「お初にお目にかかります、私はこの町の町長です。どうぞよろしく」 「こちらこそ……よろしくお願いします」  今、僕たちは町長と面を向かいあって話している。  町長は椅子に腰かけて、ずっと笑みを浮かべている。それが若干気持ち悪く感じたけれど、あくまでもそれは僕が思っただけのこと。もしかしたらメアリーとルーシーはそう思っていないかもしれない。だから、僕は何も考えず、そのまま話を聞いていた。 「まあまあ、堅苦しくならずに、楽にしなされ」  その言葉を聞いて、僕たちはそれに従う。  その様子を見届けて、町長は小さく溜息を吐いた。 「……あなたたちはラドーム学院の学生だろう? どうして、このような場所にきているのか解らないが……」  まず自分たちの身分を話されて、驚いた。  なぜ知っているのだろう。こちらから話しているわけでもないのに。 「……ああ、すまない。実はラドームから聞いているのだよ。この町は、ラドームが昔住んでいた場所でね。私も昔からよく話を聞いていた。だから仲が良いのだよ」  そう言って、町長は背を向けている電話機を指さした。  電話機。それはこの世界にやってきて、一番驚いたことだ。この世界の文明は、もともと僕が居た世界に割り当てれば、産業革命以前になるだろう。船も蒸気船ではなかったし、そもそも蒸気で船を動かすことは、ほぼ出来ないかもしれない――そんなことを語っていた。  しかしながら、この世界には電話機がある。産業革命よりも前には、電話機は発明されていない。もちろん電話機が生まれたのは、僕のいた世界では産業革命以後となる。にもかかわらず、どうしてこの世界には電話機があるのか? 謎は深まるばかりだったから、取り敢えず暫く残置させておいた疑問の一つではあったのだけれど。 「……まあ、その電話で知ったのだよ。もしかしたら船がながされてエルファスのほうまで来ているかもしれない。もしそうなっていたら、助けてやってほしい。保護してほしい、とな……。さて、君たちがここに来たということは、つまり、ハイダルク城へと向かうことになるのかな?」  ほんとうに何でも知っている。この世界の有識人は、脳内ですべて繋がっているのか?  そんな冗談を言えるくらいには、僕は気になっていたけれど、でも、余裕を感じていたこともまた事実だった。  こくり、と頷いてそれにこたえると、町長は小さく頷いた。 「成る程。ならば、序でに……そう、ほんとうに序でのことになるのだが、一つ頼まれごとをしてくれないだろうか?」 「頼まれごと、ですか?」 「そう。頼まれごと、だよ。なに、そう難しい話ではない。ただ、一つ、あることをしてほしいだけなのだよ」 「あること、って……何ですか?」  フルの言葉に、町長は頷いて神妙な顔で話し始めた。 「……妖精をこの町に取り戻してほしい」  町長はそう言って、木を見る。合わせて僕もそれを見てみた。  確かに木はどこか元気がないように見える。 「……少し前までは、元気だったのだよ。この木は。けれど、それがつい最近、急に元気を失ってしまったのだよ。……なぜかは解らない。だが、敢えて言えることがある。それは、町の中から妖精が居なくなった、ということなのだよ」  妖精が居なくなった。  そもそも妖精を見たことがない僕にとって、それは簡単に納得できることではなかった。けれど、町長の話し方――トーンからして、それは重要なことであるということは、すぐに理解できた。 「妖精の住む町にとって、妖精が居なくなったことは大変なことなのだよ。そして、妖精が住む場所は別にある。だが、そう近くは無いし、この町に住んでいる人間がそう簡単に行けることは無い。難しいとでも言えばいいだろうか。平坦な道ではないものでね、かなり険しい道のりになるのだよ」 「だから私たちに?」 「ああ。こうお願いするのは心苦しいと思っているがね」  町長がそう思うのも当然だろう。急にやってきた人間に、この町のために働いてくれと言い出すのだから。冒険者ならともかく、まだ僕たちは学生だ。そう簡単にそのクエストを受けるわけにもいかなかった。 「……まあ、そう簡単にお願いして、了承してもらうとは思っていない。今日はゆっくりと休んでみてはいかがかね? この町で一番の宿屋の部屋を確保している。そこで一晩休んで、また次の日に結論を見出してはくれないだろうか? 短い期間で大変申し訳ないと思っているが……」 「……」  確かに、すぐに結論を出せるはずがなかった。  だから僕たちはひとまず町長の意見に了承して――一日の猶予をもらうこととしたのだった。  ◇◇◇  僕たちは町の中を歩いていた。  なぜそんなことをしているのかといえば、一日の猶予をもらったことで、ちょっと時間が空いてしまったことが原因となる。ほんとうならば急ぎでリーガル城に向かわないといけないのかもしれないけれど、結局ここを解決しない限り心残りになるという判断で、僕たちはエルファスの町を歩いているということになる。 「……それにしても、ほんとうに古い建造物ばかりが並んでいるなあ。歴史がいっぱいになっている、というか」  ルーシーの発言を聞いて、僕も心の中で云々と頷いていた。  この町は人が多い。けれど、それは蓄積した歴史の上で成り立っているということ、それが十分に理解できる。そのような建造物を見て、僕はこの世界にきて何となく嬉しく思うのだった。こういう、もともとの世界ではまず見るのが難しいものを簡単に見ることが、きっと異世界の醍醐味なのだろう。そう、あくまでも勝手に思っているだけになるけれど。 「なあ、そこのあんた!」  その声を聴いて、僕は振り返った。  そこに立っていたのは、一人の少女だった。黒のロングヘアーで、フリルのついたネグリジェを着用している。 「……フル、知っているの?」 「そんなわけないだろ。僕ははじめてこの町に来たんだぞ?」 「そう……よね」  メアリーはそう自分に言い聞かせるように言って、頷いた。  対して、少女の話は続く。 「お願い、私を助けてほしいの」 「助けて……ほしい?」 「実は私は……」 「ミシェラ、なにしているのよ!」  それを聞いて、再び踵を返す。正確に言えば、僕は前を向いただけ、ということなのだが。  そこに立っているのは女の子だった。  まあ、それくらい見ればすぐに解ることだから割愛すべきことだと思うのだけれど、僕たちからしてみればそれくらいの基礎知識はとっても重要なことだった。 「カーラ。邪魔しないで。今私はここに居る旅人と話をしているのよ――」 「その旅人は町長と話をしている、とても大事なお客さんよ。あなたのような低俗な人間の話なんて聞かせてあげることは出来ない」  低俗な人間、と出たか。  確かにミシェラと呼ばれた少女の容姿は、カーラという少女に比べれば雲泥の差だ。 「低俗な人間、ねえ! 元はと言えば、私とあなたは同じ親から生まれているじゃないか。だのに、どうしてここまで変わってしまったのかねえ? あなたが媚を売ったからか、それとも身体を売ったのか? だったら私と変わらない、低俗な人間に変わりないじゃないか」 「……何を根拠にそんなことを言っているのかしら?」  カーラは笑みを浮かべていたが、その表情はどこか冷たい。冷たさを張り付けたようなそんな表情を見ていて、僕はそら恐ろしく思えた。 「何で怒っているのかな? もしかして、それが本当だった、とか? 私は、言っておくけれど、こういう可能性があるんじゃないの、と示唆しただけに過ぎないよ。当たり前だけど、そんな証拠なんて一切持っているわけでもないし。だってあなたは町長の秘書で、私はしがない娼婦なんだから、さ」 「貴様……さっきから言わせておけば!」  らちが明かない、そう思って僕は二人の中に割り入ろうとした――その時だった。  先に退いたのはミシェラのほうだった。  踵を返し、笑みを浮かべ、ミシェラはつぶやく。 「……そこのオニーサン、あとで『メリーテイスト』という色宿に来てみなさい。話はそれから幾らでもしてあげるわ。もちろん、それ以外のことも……ね」  そう言ってミシェラはウインクをして、立ち去って行った。  それを見てカーラは深い溜息を吐く。 「大丈夫でしたか? まったく……あの子には困ったものです。昔はああいうものではなかったのですが……いつしかああなってしまった」 「ああなってしまった……?」  くすり、と笑みを浮かべたカーラはそのまま僕たちに頭を下げる。 「ああ、挨拶が遅れてしまいましたね。私の名前はカーラと言います。以後、お見知りおきを。町長からあなたたちに町の案内をするように言われました。小さい町ではありますが、ぜひ楽しんでいってくださいね!」  そうして僕たちはカーラに町を案内してもらうこととなった。  楽しい時間はあっという間に過ぎ、僕たちは宿屋で休憩していた。宿は僕とメアリーとルーシー、それぞれ一人ずつの部屋が確保されていた。  随分凄い対応だな、と僕は思いながらベッドに横たわり、天井を見つめていた。  メアリーはこの町についてメモを取っていた。勉強をこういうところでもするというのは、彼女らしい。  ルーシーは既に眠りについているのだろうか。先ほど部屋に行ってノックしても反応が無かった。だから、そうなのだろう――僕はそんなことを思っていた。  そこで僕はふと、ある言葉を思い出す。  昼に語っていた、ミシェラという女の子の発言。 「メリーテイスト……か」  僕は鞄から地図を取り出して、メリーテイストという色宿を探すことにした。  メリーテイストはすぐに見つかった。宿屋からもそう遠くない。  あの子の発言が少々気になる――そう思った僕は、部屋を抜け出して、夜の街へと繰り出した。  ◇◇◇  夜のエルファスは昼のそれとはまったく違う状態だった。  正確に言えば、全体的に酒臭い。結局その理由は火を見るよりも明らかなのだが、それを気にすることなく町を歩いていた。  一言ルーシーに何か言っておくべきだったか――出発前に僕はそんなことを思ったけれど、何か面倒なことになりそうなので言わないでおいた。ひとまずは、あのミシェラが言っていた発言が妙に引っ掛かる。それをどうにか解明するために――僕は歩いていた。  メリーテイストという色宿に到着したのはそれから十分後のことだった。  そしてメリーテイストの前には、一人の少女が僕を待ち構えていた。  ミシェラ――彼女だった。 「待ちくたびれたわ、アナタ。まさかこんな時間にならないとやってこないなんて」 「……一緒に居るメンバーが眠りにつくか、あるいはそれに近いタイミングじゃないとやってこられないものでね。それくらい何となく解るだろう?」  言い訳に近い言葉を話して、僕は何とか許しを請おうと願う。 「ふうん……。まあ、いいけれど。取り敢えず、入ってよ。あ、言っておくけれど、お金はかからないよ」 「そうなら、安心できる」 「ま、別に大した話じゃないけれどさ、聞いてほしい話もあるってわけ。オーナーには、アナタは私の友人として通すから。アナタ、名前は?」 「フル……ヤタクミ」 「フル・ヤタクミ……ね。うん、ちょっと変わった名前だけれど、気に入った。さあ、中に入って」  そう言ってミシェラは中に入っていく。  ほんとうに僕がこの中に入っていいのかと思うが――しかし情報を得られるのであればどうだってかまわない。そう思って、僕は色宿の中へと入っていった。  色宿とは名前の通り娼館と宿を兼ねている空間のことを言う。のちに知ったのだが、エルファスの町を支える産業の一つが色宿と言われているくらい、この町には色宿、そして娼館が多い。  色宿『メリーテイスト』の扉を開けると、甘ったるい香りが鼻腔を擽った。 「よう、ミシェラ。どうしたんだ?」  ミシェラは現れた眼鏡をかけた男に訊ねられて、目を細める。 「別に。ちょっと古い友人と出会ったから外で話していただけ。寒いから、部屋で話すの。いいでしょう? 別に客も来ていないし。もちろん客が来たら対応するから」 「それくらい当たり前だ。……解った、それじゃ、部屋に案内しろ。言っておくが、」 「なに?」  強い目線で、男を見つめる。  男は何か言いたかったようだが――言葉に詰まって、何も言い出せない。  少し間をおいて、男は頷くと、 「解った。お前さんには稼いでもらっているからな。少し時間をやるよ。ただし、その時間を過ぎて、客がやってきたら、その時は対応してもらうからな」 「ありがとうございます」  そう言って、二階へと続く階段を昇っていくミシェラ。  それを僕は追いかけていくしかなかった。  たとえこの先に何が待ち受けていようとも、ひとまずは――従うしかない。  彼女の部屋に入ると、白を基調とした部屋が出迎えてくれた。  大きな屋根付きのベッドに腰かけて、彼女は深い溜息を吐いた。 「……座りなよ」  隣をポンポンと叩くミシェラ。正気か? と僕は思ったけれど、普通に考えてみると彼女はそういう職業だから隣に男を座らせることには何の抵抗もないのだろう――そう思って、僕は彼女の隣に座った。  ミシェラは呟く。 「今日は来てくれてありがとうね。まさかほんとうに来てくれるとは思わなかったからさ」 「……いや、ちょっと気になったからね。それにしても、いったいどういうこと?」 「どういうこと、って?」 「君の言葉が少し気になっただけだよ。どうして、ただの旅人としか言っていなかった僕たちに、話したいことがあったのか? もしかして何か隠しているのではないか、って」 「……そうよ」  予想以上に早く、彼女は口を開いた。  そしてミシェラは俯きながら、言った。 「私、旅がしたいの」 「……旅?」  何を言い出すのかと思っていたが、その発言を聞いて思わず目が点になった。  しかし、ミシェラの話は続く。 「この世界は広い。けれど、私たち姉妹に立ち塞がったものは、重く、深く、それでいて残酷だった。私の姉、カーラのことは知っているでしょう? 何せ、今日の昼に出会ったのだから」 「……ああ、もちろん知っているよ。ただ、あそこで諍いがあった程度にしか理解していないけれどね」 「それで充分。それで問題ないよ。先入観さえなければいいのだから」  そう言い出して、ミシェラは彼女の思い出を話し始めた。  それは深い思い出であり、残酷な思い出だった。  正直言って、彼女がその年齢でそれを受け止めるには、あまりにも残酷すぎる。  ただし、それは部外者、あるいは経験したことの無い人間が語ることの出来るものになるのだろうけれど。  ◇◇◇  十年前、私たちはスノーフォグのとある村に暮らしていた。  スノーフォグというのは、この国のように治安が良いわけではない。正確に言えば、治安が一定なわけではない。治安はその場所によってバラバラで良いところもあれば悪いところもあった。ハイダルクはそれが無くてすべて均等になっているけれど、スノーフォグにとってはそれが常識だった。  スノーフォグの村、そこで私たち姉妹と家族は暮らしていた。父親はスノーフォグの兵士で、母親は村で私たち姉妹を育ててくれた。父は城を守る兵士だったから、そう簡単に家に帰ってくることは無かった。けれど、城の安全を守っているということは常日頃聞いていたから、私はお父さんのことを尊敬していた。  私たちの日常が一変したのは、八年前にあった科学実験が原因よ。  科学実験――そういえば聞こえがいいかもしれないけれど、実際に言えば悪魔の実験だった。錬金術、魔術、化学……一応いろいろな学問があると思うけれど、あんな学問は未だに見たことがない。  阿鼻叫喚、悲鳴が合唱のように響き渡り。  私たちの住む村は――壊滅した。  そしてなぜか私たちだけ、生き残った。  父が帰ってきていた、偶然で最悪のタイミングでのことだった。  ◇◇◇ 「……」  淡々と語られる過去を聞いて、僕は何も言えなかった。  正確に言えば、相槌を打てるようなそんな余裕も無かった。 「……そのあと、私たちは施設に送られた。強制的に、ね。その施設こそ、私たちの村を滅ぼした科学者が居る施設だった」 「……だったら、それを国に訴えなかったのか? 非人道的実験を実施しているなんてことを国に知られたら、それこそその組織は終わってしまうだろ?」 「国ぐるみでやっているのに?」 「……え?」 「あくまでもこれは私の推察だけれど、あの村の非人道的実験は確実に国があったからこそできたことだと思う。そして今もその組織が活動しているのかどうかは知らないけれど……私は許せなかった」 「組織は、何をしてきたんだ?」 「メタモルフォーズは人間の進化の形である」 「え?」  彼女の言葉に、僕は首を傾げた。 「その組織に居た科学者がしつこいほどに言っていた言葉よ。洗脳するつもりだったのか知らないけれど、それに近いものだったことは覚えている。ただ……その言葉の意味はまったく理解できなかったけれど」 「メタモルフォーズは人間の進化性、ってことは何かされたのか?」 「……血液の採集、それだけだったかしら。あとは『適性が良くない』というばかりで何もしなかったけれど。それだけは運が良かったのかもしれない」  月の光が、窓を通して入ってくる。  ミシェラの横顔が、月に照らされて――とても綺麗だった。  しかしながら、それに対して語られる物語は酷く残酷なものだった。 「それで、君たちは逃げ出した……ということなのか?」  こくり、とミシェラは頷く。 「……私たちは逃げ出した。あの施設で実験をされることがとても怖かったから。それに、見てしまったのよ」 「見た、とは?」  ミシェラに問いかける。彼女自体が話しているとはいえ、内容自体は彼女の心的外傷――トラウマに近いものだ。だから慎重に話しかけなければ、情報を得ることは出来ない。  けれども、彼女は強かった。  はっきりと、自分の言葉で考えて、そして話していた。 「人が苦しんで――『翼』が生える瞬間よ」  翼。  それは人間には有り得ない部位のことだった。  そして明らかに人間とは違う部位であることを――彼女だけではなく、人間誰しもがそれを理解することが出来るだろう。 「苦しみながら、もがきながら、けれども科学者は笑っていた。そういう感情を抱く被験者を見て、笑っていたのよ。そして――翼が生えた。その衝撃で被験者は気を失っていた。けれども、科学者は喜んでいた。それこそが科学の進歩、その第一歩だって……」  人間を、進化させる?  それが科学の進化、その第一歩?  正直、彼女の言っていることは突拍子もないことだった。それに間違いはないのだけれど、その話を聞いていて、怒りが芽生えてくることもまた事実だった。  人間の遺伝子を、自分の好き勝手に組み替えて実験を行う。  そんなもの、許されるはずがない。  許されるわけが無かった。 「……逃げた後、どうして君たち姉妹は分かれることになったんだ? 一緒に住むことは不可能だったわけか?」 「私たちは逃げて、船を使って、バイタスという港町に辿り着いた。生まれてスノーフォグを出たことが無かったから、私たちはすぐに立ち止まってしまった。これからどうすればいいのか、途方もない旅をいつまでも続けるわけにはいかない……そう思っていた」  一旦、彼女は言葉を区切る。 「けれど、そこで私たちにほぼ同時に二つの出会いがあった。一つは、偶然旅行に出ていたエルファスの町長、そしてもう一つはスノーフォグに興行のため向かっていたメリーテイストのオーナー。二人はそれぞれ『一人』しか保護することは出来ない、と伝えていた」 「……それで分かれることになったのか」 「はっきり言って、雲泥の差よ。どちらに着くか、は。当時であっても、私たち二人は町長に保護してもらうことが一番であると考えていた。だから二人とも、必死に頼み込んで、私たち二人とも保護してもらうか、あるいはエルファスで仕事の都合をつけてもらえるかどうか、そういうことを頼んでみよう……そういう話をしていたのよ」  ミシェラは自らの身体を抱くように、両手を逆側にそれぞれ伸ばした。 「けれど、裏切った。姉さんは裏切ったのよ」  姉さん――とは昼に出会ったカーラのことだろう。僕は適当に相槌を打って、彼女の話の続きを聞き出す。 「その日、姉さんは『私を町長の保護下にしてほしい。そういう話し合いで決まった』と言い出した。私は呆れてなにも言えなかった。それと同時に私は実感したわ。私は姉さんに捨てられたのだと。妹のことなど、姉さんには必要ないのだって」 「……そして、ミシェラ、君は?」 「その場から逃げ出して、すぐにメリーテイストのオーナーに声をかけた。話し合いで私がメリーテイストに向かうことになったので、よろしくお願いします……ってね」  ニヒルな笑みを浮かべ、僕のほうを向いたミシェラ。  その表情は、どこか悲しそうだった。 「……でも、それと旅に出たい。二つのことは導かれないと思うのだけれど?」 「一言いえば復讐、けれど広い目的で言えば世界を見てみたかった、ということかな」 「世界を見てみたかった?」 「私はずっとスノーフォグ、それとこのエルファスしか見たことが無かった。それ以外の情報と言えば客が英雄譚のように話す物語ばかり。飽き飽きしていたところだったのよ、正直言って、ね」  彼女の言い分も、なんとなくであるが、理解できた。  つまり、百聞は一見に如かず。一度聞いたことを、見てみたいということだった。 「でも……女の子一人で旅に出る、というのは……」 「あら? これでも私、回復魔法を使うことが出来るのよ? ……きっと、これはあの研究所で身につけさせられたモノなのかもしれないけれどね。ちなみに姉さんは守護霊術だったかな。いずれにせよ、あの場所で身に着いたものが役に立つことは無い、そう思っていたことは紛れもない事実だけれど」  回復魔法を身につけさせられた?  それはつまり、まったく何も無かった人間に魔法や守護霊術のような――一つの才能を人工的に備えさせた、ということだろうか。もしそうであるならば、それは凄いということには間違いないだろう。ただし、勝手に身に着けさせた――というのであれば、話は別になるだろうが。 「それを使えることは、はっきり言ってこの町じゃ出来ないことよ。けれど、旅をするのならば話は別。回復魔法を使う魔術師なんて、あんまり居ないでしょう? ねえ、私を……あなたたちの仲間にしてくれないかしら。きっと、足手まといにはならないし、させない。後悔もさせないつもりだから」  ミシェラは復讐がしたいと言った。  けれど、その発言は出来る限り通したくない発言だった。  復讐は復讐しか生み出さない。それはどこかの誰かが言っていたような気がした。その発言通りであるならば、ミシェラが復讐をすることを止めたほうがいいと思ったからだ。  けれど、それをそのまま伝えても逆上されるだけだろうし、彼女が諦めてくれるとは思えない。僕たちじゃなくても別の旅人を捕まえてでも、最悪一人でも復讐の旅に向かうはずだ。  けれども、それを言える立場は僕にはない。  僕はこの世界にきてまだ日が浅い。そんな僕が、彼女に『復讐なんてやめたほうがいい』なんて言っても問題ないのだろうか? きっと、受け入れてもらえるはずがない。 「……まあ、これを言ってもきっと君には関係ないと言われるかもしれないけれどね。でも、もし受け入れてくれるのならば、私も旅の仲間に入れてほしい」  僕は彼女の強い眼差しに、ただ頷くしか無かった。  彼女の意志はとても強いものだった。  だから、僕が断ったとしても、きっと彼女は一人で旅に出る。  そうしたとき、仮に――モンスターの攻撃で死んでしまったら、それこそ後味が悪い。  だから僕は、その言葉に頷いた。  それは話を聞いてしまった責任かもしれないけれど、きっとメアリーたちはそう言ったとしても信用してくれないだろうなあ。『お人よし』の一言で済ませてしまうかもしれない。まあ、それで済ませてくれるのであれば、とっても嬉しい話ではあるけれど。  ◇◇◇ 「それでミシェラという子の話を受け入れたわけ? お人よしよ、フル。さすがにそれはどうかと思うわ」  帰ってきて、次の日の朝。メアリーは想像通りの言葉を口にした。  予想していた通りと言えばその通りではあるのだけれど、いざ言われると申し訳ない気分になる。いや、昨日の時点ではしっかり彼女の話を伝えて、メンバーに入れたいという意向をはっきりと伝えるつもりだったのだけれど、どうもメアリーと話すとうまく自分の意見が反映されないことが多々ある。それはメアリーがうまくメンバーのかじ取りをしているということでもあるのだけれど。  ルーシーは頭を掻いて、メアリーの後に続ける。 「あのな、フル? 君がどういう考えをもって行動しているのか、あんまり考えたことは無いけれどさ、だとしてもこれはどうかと思うぜ? メンバーを入れること、まあそれについては百歩譲って認めるとしても、それをせめてこちらに一回話をしてくれることくらい考えてもらっても良かったんじゃないか?」 「それは……確かに申し訳ないと思っている」 「まあ、いいわ」  メアリーは深い溜息を吐いて、僕のほうを改めて見つめてきた。 「フルが決めたんだもの。そして今はフルがリーダー。私たちのメンバーは、トライヤムチェン族の集落へ向かった時からずっと変わらないと思っていたけれど……、それでも、フルが認めたのならば、私たちも認めましょう」  一蓮托生、という言葉がある。  確か、善悪に限らず仲間として行動や運命を共にする――そんな意味だったと思う。  メアリーの世界にそんな言葉があるとは思えないけれど、それは即ち、一蓮托生ということなのだろう。  ルーシーもメアリーの反応を見て、頷く。 「メアリーが良いというならば、僕も構わないよ。それに、回復魔法を使うことが出来るのだろう? だったら、今後の旅に打って付けじゃないか。まあ、そんな危険な旅になるかどうかは未だ解らないけれどね」 「メアリー、ルーシー、有難う……」  僕は、無茶なことを認めてくれたメアリーとルーシーに頭を下げた。  仲間という言葉がとても嬉しかった。  仲間という言葉がとても有難かった。 「……ところで、エルファスの町長に頼まれた件、忘れていないでしょうね?」 「それももう決定しているよ。頼まれたからには、行動するしかない。僕はそう思っている」 「つまり、やるってことね……。まあ、そういうと思っていたわ、フルのことだから」 「確かに、メアリーの言った通りのことになったね。まあ、それはそれで全然構わないけれど」  頷いて、ルーシーも僕のほうを見た。  それに答えるように、僕も――はっきりと頷いた。  そうして、僕たちは了承した。  ただし、一つの条件を付加して。 「……ミシェラも連れていく、ということですか?」  その条件に一番反応したのは紛れもない、カーラだった。  その言葉に僕は頷く。少し遅れてミシェラも頷いた。 「ミシェラ。確かカーラの妹だったか。何故、そのようなことを望むのか、私に聞かせてくれないか?」  町長の言葉を聞いて、彼女は小さく頷いた。  そしてミシェラは、昨晩僕に言ったことを、そのまま告げた。さすがに一言一句一緒とまでは行かなかったけれど、彼女は、彼女の言葉でそのことを告げた。  ミシェラの言葉を聞いたのち、町長は頷く。 「……そうか。君はずっとそういう思いを抱いていたのだな。済まなかったな、気付けなくて。まったく、大人として恥ずかしいよ。こんなことにも気付けなかったのだから」 「町長。そのようなことは……」 「カーラ、君にはこの四人のサポートをしてもらいたい」  町長は踵を返し、カーラにそう言った。 「私が……ですか?」 「不服かね?」  町長の言葉に、首を横に振るカーラ。 「いえ、そのようなことはございません」 「ならば問題なかろう。生憎、場所は解らない。しかしカーラ、君なら道案内が出来るはずだ。本来であるならば、私が出向きたいところではあるのだが、私は町長だ。この町を離れるわけにはいかない」 「ですが……」  カーラは何処か嫌悪を抱いているような、そんな表情をしていた。正確に言えばそれはただ困っていただけに見える。まあ、普通に考えれば致し方ないことかもしれない。  自分の妹が旅に出ると言うのだから。普通の神経を持っていれば、心配するのは当然のことだと言えるだろう。  しかし、それを制したのは町長だった。 「カーラ、言いたいことは解るが、少し彼女のことも考えてみてはどうかね?」 「しかし、町長!」  町長は首を横に振った。  それを見て、彼女は今ここに自分の味方がいないことを思い知ったのか、口を噤んだ。 「……君が心配することも解る。だが、それまでにしないか。君がずっと心配性だと、ミシェラはずっと一人になりたくてもなることはできない。いや、言い方を変えよう。ミシェラは独り立ちすることが出来ないよ」 「……そんな、いや、まさか……。町長、あなたまでいったい何を……」 「君の言う言葉と、私の言う言葉では相容れないこともあるかもしれない。はっきり言って、それは当然のことだ。人間は一人一人違った生き方をしていて、一人一人違った考えを持っているのだから」  どうやら、町長は未だきちんとした考えを筋として持っているようだった。そしてそれは僕たちの考えにとっても、とても有難いことだった。  カーラは深い溜息を吐いて、ミシェラに問いかける。 「ミシェラ、あなたがどういう道を歩むかは解らないけれど……、そのことについて、何も後悔していないのよね?」 「少なくとも、今は。そしてこの選択を永遠に後悔しないようにするのは、今からの努力次第になると思うよ」 「そう……」  ミシェラの決意はとても強いものだということ、それを彼女は再認識して、大きく頷いた。 「うん。だったら、お姉ちゃん止めないよ。あなたの行きたい道に進みなさい。けれど、あなたの家族は、ここでいつまでも待っているから。そのことだけは忘れないでいて」 「……解った。ありがとう、姉さん」 「さて、話はまとまったようだな」  町長の話を聞いて、ミシェラとカーラは頷いた。 「カーラ、場所は知っているね? 家の前に馬車を置いているから、それを使ってエルフの住む里へと向かうのだ。場所は御者に伝えてあるから、その通りに行けばいい」 「解りました」  カーラは頷き、頭を下げると、僕たちに向かいなおして、言った。 「それでは、向かいましょう。エルフたちの住む、隠れ里へ」  ◇◇◇  どこかの場所。  暗い部屋に、一人の科学者が跪いていた。  その先に居るのは、一人の人間――いや、それを人間と言っていいのだろうか? 解らないが、どちらにせよそれが正しいかどうかも、もう科学者は解らなかった。 「して、報告を受けようか」  声を聴いて、科学者は首を垂れたまま話を続ける。 「はい。トライヤムチェン族の集落に向かったルイス・ディスコードですが、失敗に終わったようです。現に、予言の勇者はエルファスに辿り着いたものかと……」 「エルファス、ねえ……。あそこは確か妖精の木があった場所よね?」 「ええ。ですが現状エルフは住んでいません。エルフが住んでいない妖精の村など、ただの村と変わりありませんよ」 「……ふうん。そう、あの子たち、あの場所に居るの。ということは、あの武器も手に入れられる可能性があるわけね」 「いかがなさいますか?」  次に、違った男の声が聞こえた。  その声は科学者のそれと比べると明らかに幼い。まだ学生かそれに近い年齢の声に聞こえた。 「……まだあなたが出る幕では無いでしょう。今は私にお任せください」  また別の声が聞こえた。 「あなたもいいけれど……あなたは村のほうに向かってもらいましょうか。あそこには確か『手に入れるべき』モノがあったと記憶しているし……。まあ、ほんとうは必要ないのだけれど、私以外の誰かが持っていると厄介なのよねー。あの苗木は」  つまらなそうに。  手に入れた玩具が自分の好みに合わなかったかのような、そんな子供のような表情を浮かべているように感じられた。  しかし、科学者には顔が見えないから、それがほんとうにそういう表情をしているのかどうかというのは解らないのだが。  しかし再び、明らかにつまらなそうな溜息を吐いて、それは言った。 「苗木の回収と、目撃者の抹消。その二つを目的として、出撃して頂戴。目標はエルファス。座標は……まあ、言わないでも解るわよね? 大きな木を目印にしていけば、そう長い距離では無いから」 「了解いたしました」  頭を下げて、声が一つ消えた。 「それじゃ、僕は今回要らないってことか。あー、暇になるなあ。ねえねえ、もっと遣り甲斐のある仕事はくれないかなあ? さすがにここで演習ばかりやっていくのも飽き飽きするよ。ロマもそう言っているしさー」 「ならば、あなたにはもう一つの任務を授けましょうか。……うふふ、私に付いてきなさい」 「付いていって、どうするつもりさ? 護衛でもするつもり?」  科学者にとって高尚な地位に立っているそれと話すときは、敬語を外すことなどできやしない。  しかしながら、彼の前に立っている二人は対等な地位――というよりも、男がそれに対してフランクすぎる態度で話していた。それは男が敬語を嫌っている以上に、精神的に未だ子供だと言えるところが多いからだった。 (だが、それが問題だ……)  精神的に子供と言える――それは即ち、扱いづらいということを意味していた。  子供は大人以上に、欲望に忠実に生きる。それは即ち、自分がやりたくなければたとえ上司からの命令でもやらないことが殆どだということだ。さすがに、彼の目の前に立っている男はそんな我儘を通すほどではないが、問題は、もう一つのほうだった。 「私はこれから暫し外出する。あれの研究を進めておくように。私が戻ってくるまでに、何らかの良い結果が得られることを、期待しているぞ」  そう言って、それは立ち上がると、気配を消した。  そして男もそれを追うように、姿を消した。  一人取り残された科学者はようやく顔をあげると、自らの額に触れた。額には汗がじんわりと滲んでいた。  それほどに、その存在は科学者にとって恐ろしい存在だった。何か間違った発言をしてしまえば、自分の命を消される。そういう存在だった。 「……早く、『あれ』を完成させねば。あのお方の機嫌が、悪くなる前に」  そう言って踵を返すと、科学者は部屋を後にした。